歌が終わると、私は一人のフランス兵に引き合わされました。
 そのフランス兵は、他の無邪気なフランス兵と違って、アジア人の私を見ても好奇に目を輝かせたりはせず、淡々と右手を差し出しながらこう言いました。
「ジャンだ。あんたの世話と通訳をするように言われた」
 私は、この男はどこで日本語を覚えたのだろうと思いながらも「よろしく」と握手をしました。
 ジャンは年の頃が私と同じ二十代ぐらいで、背は低めで、痩せていましたが、病弱そうというよりは、長距離走の選手みたいに持久力がありそうな体つきをしていました。寸法が合わずぼろぼろながらも、一応は軍服を着ていて、鉄帽(ヘルメット)も被っていました。私はその鉄帽をどこかで見たような気がして、中帝陸軍のものに似ていると思い当たり「その鉄帽は?」と聞くと「戦争が始まってすぐに手に入れたものだ。当時、欧州は中帝から支援を受けていた」とジャンは少々つっけんどんに答えました。
 その夜、私は欧州軍の陣地で夜を明かし、朝になると現地指揮官の下に出頭しました。指揮官はジャンを通訳に使いながら、私の身分証を改めると、ジャンに私を後方まで護送するよう命じました。指揮官に命じられる間、ジャンが渋い顔をするのを、私は見逃しませんでした。
 当時、特に先進的な新国などでは既に自動車時代が到来して、若者は自動車免許を持っているのが当たり前だったような時代でしたが、欧州軍の主な移動手段は第一に徒歩、次いで馬でした。現地指揮官が気前よく私たちに支給してくれた、自転車というのもありました。聞けば、英国軍から奪ったとのことでした。
 こうして、私の初めての大陸欧州旅行が始まりました。
 と言っても、南フランスの美しくのどかな田園風景を楽しんでいられたのは、出発からほんの数時間だけで、長距離を自転車で移動するのは、慣れない私にとってかなりしんどい体験でした。道がほぼ全て未舗装だったのも災いしました。
 連れのジャンもまた、愉快な同行者というわけには行きませんでした。ジャンは日本語が話せるくせに、自分から話をしようとはしませんでしたし、私が話しかけてもどこかよそよそしく、表情もいつも仏頂面でした。そのうち、だんだんと息が上がってきた私は、話かける気力もなくしていきました。ジャンの方は涼しい顔でしたが、私の虚弱体質に少々苛立ってきているようでした。
 そんな気まずい空気の中、野宿で一夜を明かした後、街道を走っていた私たちは、たまたま小休止のために停車していた馬車を見つけ、走らせていた欧州人御者との交渉の末、便乗させてもらうことができました。もっとも、手放しでは喜んでいられませんでした。その馬車は負傷者を後送するためのもので、車内は血の臭いや負傷者のうめき声で一杯だったからです。中には明らかに死んでいる者もいて、私たちは死体の埋葬を手伝うのと引き替えに、便乗を許されたのでした。そんな惨状にも関わらず便乗することにしたのは、ひとえに私が疲れていて、それにジャンも苛立っていたからです。
 馬車は私たちが乗る空間を確保すると、後は屋根の上に至るまで満杯だったので、自転車は捨てなければなりませんでした。それが分かると、ジャンは道中初めての笑みを浮かべて、自転車を二台とも抱えてどこかへ行き、自転車を持たずに帰ってきました。聞くと、近くの農村で売り払ってきたとのことです。なかなかにたくましいやつでした。
 しかし、死者の埋葬を始めると、ジャンの笑みも消え失せました。死体は二体あり、一体は私たちと同じ年頃の若者で、負傷していたのは足でしたが、ひどい化膿を起こしていて、それが死につながったようでした。十分な医療設備さえあったら、助かったはずです。もう一体は、全身のあちこちに包帯が巻かれ、特に顔を負傷していたようで、乾いた血で真っ黒になった包帯――と言っても、着古した衣服を破って作ったような、ただのぼろ切れでしたが――で鼻から上をぐるぐる巻きにされたまま事切れていました。
 埋葬を終えて、走り出した馬車に揺られながら、負傷者たちが醸し出す冥界の空気に触れると、ジャンはますます塞ぎ込むように見えました。私の方も、昨日の疲れが残っていたこともあり、黙り込んだままでした。
 私は少しでも負傷者たちの瘴気……と言っては冒涜的ですが、実際に経験した私にとっては、それはまさに瘴気そのものでした……から逃れようと、馬車の後ろ、外界に向かって開け放たれた場所に腰掛けました。
 気づくと、同じことを考えたのか、私の向かいにジャンが座っていました。彼は背を壁に押しつけていて、まるで少しでも私に近づきたくないかのようでした。