enある日、俺はちょっとした気持ちで指輪を盗んでしまう。

その日から、俺は指輪の持ち主について考え始める。

この指輪の持ち主は、どんな人だろう。

そして、今、俺のことをどう思っているのだろう。


 

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2015年6月

ノンジャンル

短編

4ページ

 

 特に金に困っていた、というわけじゃない。
 ただ、気がつけば俺は、その指輪を盗んでいた。
 出来心、とでも言えばいいのか。芝生が敷き詰められた民家の庭先、ちょっと優雅にお茶でもできそうな木目の野外テーブルの上。あまりにも無造作に置かれていたために、その指輪は、俺の注意を引いた。
 一歩二歩、と芝生を歩いて、ひょいと指輪をつまみ上げ、来た道を戻れば、その指輪を盗めそうだった。
 窃盗は犯罪だ。でも、捕まりさえしなければ、労せずして物を手に入れることができる。その快感は、どれほどのものだろう、などと、俺は、普段だったら絶対に抱かないような発想を、なぜかその時には抱いてしまった。
 結果、俺は誰も見ていないことを確認した後、思ったことを実際にやってみた。一歩二歩、と芝生を歩いて、ひょいと指輪をつまみ上げ、来た道を戻った。盗みは成功した。
 指輪をポケットに突っ込んで、俺はその場を立ち去った。警察用語的には「逃走した」と言うのだろうが、俺はただ、いつも通りに歩いただけだった。
 いつもと違うのは、タダで物を手に入れたという、えもいわれぬ快感が、胸にあったことだった。

 

 家に帰って、俺は指輪をじっくり観察した。金のリングの頂点に、ささやかな無色透明の宝石がはめ込まれている。彫り文字の類いはない。
 そこで俺が思ったのは、この指輪はただの安価なイミテーションなのではないか、ということだった。それならば、あんな風に無造作に置かれていたことも、納得がいった。
 そうに決まっている。あんな風に簡単に盗めた指輪が、高価な品であるはずがない。そんなうまい話、あるはずがないのだ。あの家の住人だって、安い品だったからこそ、あんな場所に指輪を置きっ放しにしていたのだ。
 そう決めつけた俺は、盗みの快感が落胆に変わるのを意識しながら、住んでいる一間のアパートの隅っこに指輪を放り出して、それっきりにした。

 

 だが、翌朝、指輪を盗んだあの家の前を通りかかった俺は、内心の動揺を悟られまいと必死になった。
 民家の前には警察のワゴン車が停まっていて、鑑識らしき数人組が、テーブルから指紋を取ったり、芝生の表面を調べていたりした。閑静で動きの少ない住宅街の中で、その一角だけは、人が慌ただしく動き回り、ざわざわと低い声で話し合う、動きの激しい空間と化していた。
 さらによく見ると、玄関先には三十代ぐらいの女性が立っていて、背広姿の刑事らしき男と、何やら話し込んでいる。
 俺はそんな光景を視界の隅で見ながら、努めて平静を装おいつつ、民家の前を通り過ぎた。後で、かえって平静な表情の方が怪しまれる可能性が高かったのではないかと思ったが、どうやら目を付けられずに済んだようだった。
 いずれにせよ、これで三つのことが分かった。
 一つ。あの女性は、指輪がなくなったのに気づいて、警察に届け出た。
 二つ。ということは、あの指輪は、安価なイミテーションなどではなかったのだ。
 そして三つ目は……あの指輪の持ち主は、少々歳を取ってはいるが、美人だということだった。