俺は入院することになった。
が、入院したといっても、この前代未聞の事態に対し、確立された治療法があるはずもない。俺は何の措置も受けないまま、その後数日かけて、あちこちの病院を転々とし、最後には、この国で一番大きな病院へとたどり着いた。
そこの新しい担当医師は、最初の医師と比べると、いくらか落ち着いていた。
「各種検査の結果、」と、その医師は言った。「このぷかぷか浮いている肉の塊は、間違いなく、あなたの大脳であることが確認されました。詳細は今もって不明ですが、この、鼻の穴に通じている二本の線から、神経信号や栄養のやりとりをしているものと思われます」
「……あのう」
「はい」
「聞いてもいいでしょうか」
「答えられるかどうかは分かりませんが、どうぞ」
「こんなことが起こりうるんでしょうか……仮に、一晩のうちに脳が頭蓋骨の外に飛び出す事態があり得るとしても、そうなったらもうその時点で死ぬはずで、今もこうして、生きていられるはずがありません」
「とはいえ、生きているのですから、まずはそのことを喜びましょう」
「大体、こんな二本の線で、脳への栄養補給をまかなえるはずがないんです。そして最大の謎は……この脳が、万有引力の法則を無視して、ぷかぷかと浮いていることです」
「……ちょっと聞いてもらえませんか」
「はい」
「白いカラス、という話がありましてね」
「はい」
「『この世に白いカラスは存在しない』という命題は、証明するのがものすごく大変です。この命題を証明するには、全世界のカラスを全て調べて、白くないことを確かめる必要がありますから。一方で『この世に白いカラスは存在する』という命題は『存在しない』という命題に比べると、証明するのがすごく簡単なんです。たとえ一羽だけでも、白いカラスを見つけることができれば、証明したことになりますからね。全世界のカラスを調べる必要はないのです。たった一羽だけ見つけてくれば、それで証明できるのです」
「……」
「今回の症例も、つまりは、そういうことです」
「分かりました、もういいです……」
それからさらに数日後、俺は手術をすることになった。
脳を頭蓋骨の中に戻す、大手術だ。
医師は、成功の見込みは十分ある、と言うが、正直なところ、俺にはよく分からない。少なくとも、過去に成功した例は一つもない。症例が一つもないのだから。
それでも俺が手術を決めたのは、また元通りの生活がしたい、と思ったからだ。
そして今、俺は手術台の上に横たわっている。
手術は、まず、鼻から伸びている神経を、切断するところから始めることになっていた。
手術衣を着込んだ医師が、手にしたハサミを、そっと鼻の神経に近づけてくる。俺は、目を閉じることもできずに、その様子をじっと見ていた。
鼻から伸びる神経が、ハサミの、二本の刃の間に入った。
二本の刃の距離が、すうっと縮まる。
ああ……
あ……
完
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