一一九番のオペレーターは、最初は真摯に話を聞いてくれた。どうやら、俺が事故に遭って動揺するあまり、わけの分からないことを言っている、と思っていたらしい。
「落ち着いてください。脳みそが飛び出した、とは、頭に怪我をした、ということですか?」
 俺はその時、初めて頭をさすって、どこにも外傷がないことを確かめた。
「いえ、頭には外傷はありません」
「出血はしていますか」
「いえ、出血はしていません」
「痛みはありますか」
「いえ、痛みもありません」
「では、どういう……?」
 戸惑うオペレーターに、俺は言った。
「脳が、何かの拍子で、頭の外に飛び出してしまったみたいで……鼻の穴から神経が伸びてて、それで何とか命は繋いでいられるみたいなんですが、でもこのままじゃ……」
「は、はあ……」
「と、とにかく救急車を!」
「あのう、その前に、一言申し上げておきたいんですが……」
「はい?」
「いたずら電話は、犯罪として処罰される可能性があります。それでもかまいませんか?」
「いいから早く救急車を寄越してください!」

 

 それからしばらくしてやってきた救急隊員たちは、明らかに困惑していた。彼らは俺の大脳を作り物ではないかと疑ったようで、脳を傷つけないようゆっくりと、カニ歩きで救急車に乗る俺を、怪訝そうに見ていた。
 救急車の中で、俺はストレッチャーに横たわって、ぷかぷかと浮かぶ大脳の下面を眺めつつ、とりあえずという感じで脈拍やら血圧やらを計られる、という時間を過ごした。
 病院の救急救命医の対応は、救急隊員のそれよりももっと露骨だった。救命医は俺を一目見て、二言三言会話するなり「緊急性がなさそうなので、申し訳ないですが、通常の外来を受診してくださいますか」と、ちっとも申し訳ない態度を見せずに言ったのだ。
 仕方なく、俺は外来を受診することにした。診療科は脳神経外科を選んだ。
 待合室で、俺は椅子に座り、腕組みをして順番を待った。俺が来たのは、外来が始まってからしばらく経った頃だったので、他の患者も大勢いたのだが、みな、鼻から神経を伸ばして脳をぷかぷかさせてる俺を、遠巻きにして不気味そうに見るばかりで、近づこうとはしなかった。俺の周囲には、たくさんの空席が出来ていた。だが、俺はむしろそれでいいと思った。小さな子供などに、脳を強打されてはたまらないからだ。

 

 ようやく俺の順番が来て、俺は診察室に入った(もちろんカニ歩きで)。
 中にいたのは、四十代半ばぐらいの壮年の男性医師だった。その医師が、あまり驚いた様子を見せなかったので、逆に俺が驚いたぐらいだったが、同時に「ああ、やっとまともに話を聞いてくれる人に出会えたのかな」と安心もしかけた。
「こんにちは」
「こんにちは、よろしくお願いします」
「で、今日はどうされましたか」
 俺は、鼻から伸びた神経のせいで鼻声になりつつ、今も目の前にぷかぷかと浮き続ける大脳を指して言った。
「ええっと、見ての通りなんですが……あのう」
「はい?」
「これを見ても、驚かないんですか?」
「事前に報告がありましてね」
「報告ですか」
「ええ、今日はちょっと……変わった患者さんが見えられると」
 なんだそういうことかと、俺はがっかりした。これが、目の前でぷかぷか浮いているのが、俺の本物の大脳であると、この医師が信じてくれているわけではなかったのだ。
 俺は落胆しつつも、頭をCTで検査してくれ、と願い出た。もし本当にこのぷかぷかが俺の脳みそだとしたら……頭蓋骨の中は今、空洞になっているはずだ、と思ったから。そのCTの画像を見れば、さすがにみんな信じるだろう、と考えたのだ。
 担当医師は、二つ返事で了承してくれた。
「あなたの気が済むなら、それで構いませんよ。順番待ちはしてもらいますがね……ああ、保険が効かないですから、請求が高額になると思われますが、それでもいいですよね?」
 などと言われて、腹が立ちはしたが。

 CTの検査中、俺は、鼻から伸びた脳が傷つかないよう、四苦八苦した。どうしてもCTのドーナツ状になったリングの部分に脳がぶつかってしまい、検査の邪魔だし心情的にも落ち着かないので、仕方なく手を添えて、脳を首下で抱えるようにして持って、頭をスキャンした。たったいま手で抱えている肉の塊の中に、俺の意識が入っているというのは、やはり変な気分だった。
 青ざめた表情で脳みそを抱える俺を、検査技師たちはニヤニヤしながら見ていた。しかし、ひとたび検査結果が出ると、彼らは俺以上の顔面蒼白となった。

 

「け、け、結果をご報告します」
「はい」
 しどろもどろになる担当医師を横目で見つつ、俺は言った。脳が邪魔で、身体を横に向けないと、医師の顔が見えないのだ。
「た、単刀直入に、も、申し上げますと」
「はい」
「あなたの頭蓋骨の中は……空っぽです。脳みそが、どこにも見当たらず、忽然と消えてしまっています。後の空洞には、何か液体が詰まっているようですが、おそらく生理食塩水か何かではないかと思われます」
「……で、俺の脳みそは、どこに行ったのでしょう?」
 そう言う俺を、医師はまじまじと見つめ、次いで視点を、俺の鼻先でぷかぷかと浮かぶ、大脳へと移した。
 そして言った。
「お脳は痛くないですか……?」
 俺は、脳には痛覚はないはずですよね、と、ため息交じりに言った。