「絶対的な何かの不在っていうのは、見方を変えれば、そんなに悪い事じゃない。物は考えようだよ。たとえば、魂がないってことになれば、将来、人間の脳の内容を機械にコピーして、永遠の命を得られるかもしれない」
「嫌よ。そんな世の中は嫌」
「もちろん、嫌ならいいよ。でも、これから先、人類が滅びずに科学が進歩していけば、そういうことはどんどん増えてくると思う。人間とは何かっていう人間自身の認識が、どんどん変化していくだろうし、これまでもしてきた。でも、たぶん、変わらないことがいくつかある……たとえば、結局のところ、その人にとって重要なのは、おそらくその人の主観だってこと。究極の意味での客観なんか存在し得ない。だから客観的な絶対性もない。でも、逆に言えば、主観の世界は自分の思うようになるんだから、自分の思うように世界を作りかえることだってできる。君がやったこともそれだ。絶対的なものを求めて、自分の主観の中に閉じこもった」
「それの何が悪いの?」
「何も悪くない。僕は悪いだなんて一言も言ってないよ。そういう問いがでるのは、君が君自身のしていることを悪いと感じているからだ。でも、言っておくよ。君は何も悪いことはしていない。ただ、君のしていることを続けられると僕は困るんだ。僕は君ともっと接していたいんでね」
「帰って!」
「一足す一は、やっぱり二だよ。二は確かに一でも一でもない。それを見て君は絶望した。多数の中に紛れた自分が、自分でいられなくなることに。その気持ちは僕も分かる。でも、僕の感想はちょっと違う。僕は希望を感じた。人が交わり合うことで違うものになれる。そこには可能性がある」
「そんな可能性はいらない! 私は私のままがいい!」
「君は君のままでいられない。人間は一人では生きられない」
「分かってる。でも時間と場所を区切って一人になることはできる」
「うん、そういう時間も必要だ。僕は秘密の部屋通いをやめろなんて言うつもりはない。でも、何て言うのかな……こうやって、たまたまだけど、君の隠された一面を知ることができて、僕は嬉しいよ。もっと君のことが知りたい」
「私のことを知ることなんてできるの? あなたには私が見えるの? 見えるわけないじゃない」
「確かに、僕は僕の主観を通してしか君を見ることはできない。でも、それを言ったら、君だって、君の主観を通してしか君を見ることはできないよ。いいかい、ここが重要だ。近代以降、客観は主観に優先すると言われてきたけど、そんなのは嘘っぱちだ。主観こそが最も重要なものだ。客観なんてものは、多数派か、でなければ権力者の主観を上手いこと権威づけたものに過ぎない。みんな、大勢の主観の上に一つの客観があるという世界観を持っている。でも、実際にはそうではなくて、実際は客観なんてものは存在せず、大勢の主観がばらばらに存在するだけだ。そして、その主観はみんなそれぞれ等しく尊いものなんだ。魂の存在があるとすれば、そこにあるだろう。でも、魂なんて物の存在を信じたり仮定したりする必要はない。主観こそが全てなのだから」
「……」
「君はそのことに気づいているね? けれど、君は幼い頃から生まれ育った客観絶対の世界から完全には抜け出せていない。だから苦しんでいるんだ」
「どうしてそんな風に決めつけることができるの? 本当の私なんか見えない、ってあなたはさっき認めたじゃない」
「そう、本当の君は僕には見えない。でも僕の中にいる君は見える。僕は今、僕の中にいる君に話しかけている。君はそんな客観から乖離した世界観を不安定なものとして怖がっているみたいだけど、住んでみればこれ以上いいところはないし、全ての、主体を持つ者はここにしか住めない」
「そんな主観絶対の世界になったら、自分勝手なことをする人ばかりになっちゃうんじゃないの?」
「現に今の世の中がそうなっていると僕は思うけど、そういう開き直った答えをしないなら、そうはならない。それに、この世界は主観絶対の世界でもない。この世界は主観相対の世界だ。この世界に住んでいるのは一人じゃないから、主観を持った主体が大勢いて、その力関係で世界が成り立っている。僕たちは、全ての主観が持つ力の真ん中の点に住んでいるんだ。その点が現実の世界だ。点は主観や力の変化によって微妙に揺れ動く。客観絶対の世界と違って、一カ所にとどまって動かないなんてことはない」
「……それで、何が言いたいの?」
「君は絶対的な自分にこだわることなんてない。絶対というのは客観的過ぎる概念だ。君は主観と客観の狭間で苦しんでいる。こっち側に来てしまいなよ。自分が見ようとすれば、そこに自分は現れる。他人から見られようとは思わないことだ。他人に自分は見えないし、見えたとしてもそれはその他人の中の自分だ。全ての物は揺れ動く。それでいい。あるがままに流れるのを見て、その流れに乗っていけばいいじゃないか」
「……あなたは、私のことを好きって言ったけど、そんな世界で本当に人を好きになったりできるの?」
「できないだろうね。できたとしても、できたとお互いに思わせるだけが精一杯だろう。でも、死ぬまでそれを続けられたら、それはできたって言ってもいいんじゃないかな? それもまた主観相対の世界の良さだよ」
「……」
 僕はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「君は僕をだましてくれた。今度は、僕が君をだましてあげるよ。君さえよければ、この先一生、死ぬまでずっと」
 それっきり、彼女の声は途絶えた。しかし僕は僕の中で彼女を見ていた。ドアの向こうに立つ彼女を。
 やがて、鍵が開けられる音がして、ドアノブが回り、ドアが細く開けられた。
 僕は僕の中で、彼女の声を聞いた。

 

 


 

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