明くる日、彼女はどこにあったのか、時代遅れのCDラジカセなんぞ持ち出して、ビートルズの「ハロー、グッバイ」を流していた。ラジカセもそうだが、なぜその選曲なのか、と僕は思ったが、聞けるわけもなく、ただ彼女がそうしているように、椅子にすわって曲を聴くことにした。
 そのうち、彼女は曲に合わせて歌い出した。僕はうっとりと、彼女の歌声に聞き入った。いい声だった。
 曲が終わると、ラジカセを止めて、彼女は言った。
「ねえ」
「はい」
「あなた、数学はできる?」
「君ほどではないけど」
 謙遜でも何でもない。彼女はクラスでも成績トップだ。これが彼女じゃなかったら「馬鹿なこと聞くなよ」とでも返してやるところだ。
「じゃあ、一足す一の答えを言ってみて」
「……」
 超難問であった。僕は答えに窮した。一見すると、一と答えるのが正解に見えるが、それは罠かもしれない。と言っても、僕の頭では、一と答えた途端「馬鹿じゃないの」と言われるという小学生みたいな落ちしか思いつかなかったが。
 二、と答えてみるのも一興だが。しかし、僕は忠実な彼女の犬であることを示したい気もする。
 結果として、僕は変化球を投げた。
「それは数学じゃなくて算数だよ」
「いいえ、これは数学でも算数でもない。常識だわ」
 ものすごい勢いで打ち返された。僕は結局、地面に寝転んで腹を見せることにした。
「一じゃないかな……」
「自信なさそうね」
「だって」
「そうね。答えは二よ。みんなそう言う」
 彼女はCDラジカセからCDを取り出しながら言った。
「一と一を足したら、一でも一でもない数になる。こんな理不尽なことってある?」
「……」
 僕が黙っていると、彼女は手の上できらきらするCDをもてあそんでいる。
「一だ一だとみんなは一括りにするけど、実際には二つの一はそれぞれ違うかもしれないじゃない。リンゴが一個、レモンが一個だったら、リンゴは一体いくつあるの?」
「小学校の最初の授業で、そんなのをやったかもしれないね」
「私と、あなたは、違う人間よ。でも私とあなたを足したら二人になる。どうして?」
「数っていうのは、そういうものだよ」
「分けが分からないわ。このCDを見て」
 彼女はCDのきらきらした面を僕に見せた。
「昔、音楽がレコードっていう形で流通していた時代は、たとえ人間の耳には聞き分けられないレベルでも、一枚一枚のレコードの音は違っていた。レコードっていうのは、アナログの記憶媒体だからよ。それがCDになって、全てのCDは全く同じ音を持つようになった。アナログからデジタルになったからよ。どうしてこんな世界になってしまったの? 世の中には同じ物が溢れている。私たち人間は、世界の全ての物は本来アナログなのに」
「量子論は知ってる?」
 僕は言った。
「ものすごく小さい量子レベルでは、物も人間もデジタルだよ。そこまでいかなくたって、人間の思考は電気信号なんだから、ゼロと一ほどはっきりしていなくても、どこかで不要な情報を切り捨ててる。僕らが感じることのできる物は全てデジタルだし、現実に存在している物も、たぶん突き詰めればデジタルだ。遠い将来、技術が発達すれば、複製も改造も簡単にできるようになる」
「知ってるわよ。あなたの言う通り。でも、私が言いたいのはそういうことじゃなくて……」
「……そういうことじゃなくて、何?」
 僕は、珍しく口ごもった彼女に視線を固定したまま、その部屋を見渡した。本棚、絵画、編み物、お茶、そして歌。
 共通点。全てアナログだ。