初めに目に飛び込んできたのは、正面の窓から差し込む、西に傾いた陽光だった。
 目を室内に向けると、僕はちりばめられた無節操の欠片に目を見張った。二つきりの小さなついたてでこしらえたささやかな本棚、編みかけの何かが入ったバスケット、黒板に貼り付けられた正体不明の抽象画、部屋の隅のティーセット……でも、とりわけ僕の目を引いたのは、黒い髪を乱して長机に突っ伏した、彼女の姿だった。
 数秒間、僕は固まっていたと思うが、その間に彼女は顔を起こして、僕の方を見ていた。いつもの、みんなや、僕が知っている彼女とは違った。気怠げで、何もかもどうでもよくなったような、それは無気力な世捨て人の目だった。およそ彼女ではなかった。
 僕が見つめている間に、彼女はその目に似つかわしいゆっくりとした動作で、折りたたみ椅子から立ち上がり、隣の椅子に置いていた鞄を手に持ち、手ぐしで髪を整えながら窓に歩み寄ってカーテンを閉めて、最後に僕の方へ向かってきた。
 僕は慌てて道を開けた。彼女が僕の横を通る時、ふんわりといい匂いがした。
 僕は彼女に促された気がして部屋を出た。すると彼女はドアを閉じ、おもむろに取り出した鍵で施錠した。
 そして、廃校舎の闇の中に消えていった。帰ったらしかった。
 廃墟独特の、じめじめして生暖かい、息の詰まりそうな空気だけが、後に残っていた。

 

 翌日の学校では、僕は彼女とは一言も口を聞かなかった。もっとも、それはいつものことだった。僕はシャイなんだ。そして同時に誇り高いのだ。好きな女の子に話しかけていって、そのまま友達の地位を確立して満足してしまう連中とは違うってことだ。そして、機会を見て上手い具合に彼氏に収まってしまう連中とはもっと違うってことだ。
 その日の放課後も、僕はまたあの廃校舎の秘密の部屋へと行った。
 ドアを開けると、彼女が折りたたみ椅子に座ってこちらを見ていた。僕は気になって来てはみたけどどうしたらいいか分からず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
 すると、彼女が、およそ彼女らしくない気怠げな声で言った。
「一足す一は?」
「……二」
 正解を言ったはずなのに、彼女は浮かない顔だった。まるで誕生日プレゼントにスーパーの百円ケーキを買ってきた彼氏を見るかのような、なんて長々と言ってみたが要は「最低」の二文字を象徴する目つきだった。
 彼女は、昨日もそうしたように、鞄を手に取り、手ぐしで髪を整え、カーテンを閉め、最後に僕の方へ、ではなくこの部屋に一つしかない出口の方へ、向かってきた。
 道を開けて鼻をかぐと、いい匂いが僕の肺を満たした。
 その瞬間、彼女はそれを見とがめるみたいに言った。
「私は一がいいわ」
 一足す一の答えのことだ、と気がつくまで少しかかった。その頃には彼女はもう遠ざかって、闇の中へ消えていきそうだった。
「僕も!」
 彼女が立ち止まる。
「僕も……一がいいな。うん。一でいいと思うよ。一足す一は一。いいじゃないか」
 分けも分からず、ただ彼女を引き留めたい一心で、僕はそう言った。
 気がつくと彼女は振り向いていた。みんなが知っている彼女も、昨日僕が見た気怠げな彼女もそこにはいなかった。彼女は今、薄闇の中で、見られた者を射貫くような鋭く凛々しい目をしていた。それは授業中の先生に向ける目にも似てたし、友達の悩みを真剣に聞く時の目にも似ていた。ただ、そのどちらとも少し違うようだった。たとえるなら……皇帝の衛兵の目のようだった。
 彼女が何を考えているのかさっぱり分からないのに、僕はその目に見つめられて内心では震え上がっていた。次に彼女がどうするかで僕の運命は決まってしまうのだった。心臓を手のひらでころころやられているみたいだ。彼女が立ち去れば、僕は地獄の底に落ちるだろう。しかし、それ以外の結末が考えられるだろうか。
 そんな風に、僕はもうすっかり覚悟だけは決めていたんだが、彼女は意外にも僕の方へ戻ってきた。
 そのまま僕の胸に飛び込んでくる所を想像した愚かな僕は放って、彼女は僕の横をすり抜けてドアを開けた。いい匂いはしなかった。