就寝するときも、必要最小限のことしか言葉を交わさなかった。あと一日、この調子で過ごさねばならないと思うと、田中は気が重かった。いっそ何もかもなかったことになってくれるか、でなければ、朝起きたらさっきの会話を二人とも忘れていればいい、と思った。

  それは真実になった。つまり、朝起きると、昨日交わした会話などすっかり頭から吹っ飛ぶようなことが、田中に降りかかったのだった。
  まだ開けていない雨戸から、朝の明るい光が十分に差し込む時刻まで、田中は寝込んでいた。目を覚ますと、田中は山中がまだ寝間着姿でいるのを見た。ノートパソコンのバックライトの光が、山中の落ち着いてはいるが深刻そうな顔を、闇の中で浮かび上がらせている。仕事で何かトラブルでもあったのかな、と思った田中が身をよじると、山中は田中の方を見やった。
「起きたか。田中くん、大変なことになったぞ」
  大変なこと?
  田中は下腹を掻きながら、薄暗い小屋の中を見渡した。シンと澄み切った冷たい空気。囲炉裏の火。眠るかまど。何もかもが昨日のままに見える。
「何かあったんですか」
  だから、そう言った田中の声はのんきなものだった。
  すると、山中は表情を変えずに、ノートパソコンの画面を示して見せた。
「戦争だ」
  なんだ、戦争か。田中が思ったのはそれだけだった。戦争なんてしょっちゅうやっている。また世界の片隅で、貧しい国同士が少ない富の醜い取り合いを始めたというのか。
  寝ぼけ眼をそのままに、田中は山中が向けたディスプレイをのぞき込んだ。
  英語の見出しの下に画像がある。田中は見出しを読み飛ばして画像に見入った。交差点の真ん中に、大きなクレーターができていた。ビルのガラスは割れ、中の壁が真っ黒に焦げている。爆心地から少し離れたところに、こざっぱりしたスーツ姿の男や女が、ばたばたと倒れていた。
「こんなのインチキですよ」
  と、田中は画像を指さして言った。
「爆発で死んだんなら、外傷がないのはおかしい。どの死体も綺麗なもんじゃないですか。きっとどこかの三流ディレクターが……」
  山中は少し怒気を込めて田中を遮った。
「君は英語が読めないのか? ガスだよ。毒ガスが使われたんだ」
  田中の意識レベルがちょっとだけ上がった。なるほど。毒ガスとは珍しい。大変なことだ。
「どこでです?」
  山中は朝の寒さで赤くなった指を、英語の見出しの最初「Japan」と書かれたところに突き立てた。
「君は本当に英語が読めないみたいだな。日本だよ。日本が、毒ガスを搭載した弾道ミサイルで攻撃を受けているんだ。相手は北朝鮮だ」
  田中はようやくことの重大さを理解した(つもりになった)。
「と、東京がですか」
「東京だけじゃない。大阪、名古屋……」
「一発じゃないんですか」
「俺は攻撃を『受けている』と言ったんだ。いまこうしている間も、一時間に十五発のペースでミサイルが発射されている。自衛隊と米軍がそのうちの三分の二を撃ち落としていると言っているが、それでも三分の一は狙いどおりに着弾している。仙台、札幌、福岡、那覇までやられた。死者は千人じゃすまないだろう。一万人を超えるかもしれない」
「……」
「特に、東京はひどい」
  山中は手を伸ばして、画面を切り替えた。そこには、崩落した橋を背に、ずぶ濡れのスーツで必死に浮かぼうとしながら川を泳ぐ、無数の人々の画像があった。
「北朝鮮は朝の通勤時間帯を狙ってミサイルを撃った。市民はすぐに都市部から離れようとしたが、そしたら東京中の橋という橋が爆発して崩壊した。前の日のうちに、北朝鮮の工作員が爆弾をしかけていたらしい。避難民を乗せていた船も、一部が爆発して沈没した。東京はいま、文字通りの地獄だよ」
  田中は、あまりのことに呆然となった。そんなことは、あの震災の時以来だった。
「た、大変だ……」
「大変?」
  田中が漏らした言葉を、山中は拾ってきょとんとした。そして、次の瞬間、顔を愉快そうに歪めて、あまつさえ、声を出して笑い始めた。
「あはははは、こいつは愉快だ」
「……な、何がおかしいんですか! いまこうしている間にも、たくさんの日本人が死んでいるっていうのに!」
「ん? 田中くん。確かに君の言うとおりだろうよ」
  山中は目尻にできた笑い涙を拭いつつ、こう言った。
「でもさ、考えてもみろよ。戦争なら、この中でしょっちゅう起きてる」
  そう言って、山中はパソコンの画面を指さした。
  田中はそれに反駁しようとした。
「でも、今回は日本で起きたことで……」
「それだって同じさ。俺たちには関係ない」
「な、何言ってるんですか。関係ありますよ」
「いいや、ないね。北朝鮮が狙っているのは都市部だけだ。こんな山奥にはミサイルはこない。ひょっとすると、迎撃された後の破片が落ちてくるかもしれないが、それだって、太平洋の小魚に小石を当てるような低い確率だ。まずありえない」
「た、たしかにここは安全かもしれませんが。食料とかは外部に頼ってるわけだし……」
「君には見せてないし、見せるつもりもないが、この家には地下室があって、そこには一年分の水と食料が蓄えてある。暖かい季節に狩猟採集生活を送れば、二年か三年は保つだろう。それだけあれば次にどうするか考える時間はたっぷりある」
「……」
「ほらよ。今日も天気は不安定だから、これを君に貸すよ」
  山中は田中にモバイルパソコンを差し出した。
「それで好きなだけ情報を集めるといい」