田中がスキーウェアを着込んで戸を開けると、家の横手でどさっと雪が落ちる音がした。うっかり生き埋めになるところだったと気がついた田中は、ぞっとしつつも大声を出して山中を呼んだ。
「よーし、家を出て左の方にはしごがあるだろう。それで屋根まで上がってこい」
  見ると、木を組んで作ったはしごが、家の屋根に立てかけられていた。田中は山中が作った足跡の上を歩いてそこまでたどりつくと、横木をしっかりと踏みしめて頑丈さを確認し、屋根の上に登った。雪が舞っていたが、大したことはなかった。ただ、時々、無防備な顔に雪が張り付いて、ひんやりするだけだ。
  屋根の上に登ると、山中はスコップを放って寄越した。
「屋根の端に行く時は本当に注意しろ。どこで屋根が終わってるか、見ただけじゃ分からないからな」との注釈付きで。
  田中は黙々と雪かきを始めたが、山中と一緒に半分ほどやったところで、もう疲れてへとへとになってしまった。田中は手を休めながら、何か会話をしようと思い、こう言った。
「もう何年、ここに住んでるんですか」
「なんだって?」
「何年住んでるんですか!」
  あっけらかんとした声が返ってきた。
「三年目かな」
「毎年雪下ろしをするんですか。大変でしょう」
「日本海側に比べれば大したことはないさ。あそこは世界有数の豪雪地帯だからね」
  謙遜だろうか。しかし、こんな人里離れた山奥で暮らすには、かなりの苦労があるはずだ。さっきもそんな話がでたが、どういう理由で住み始めたのだろう。

  一通り雪下ろしを終えると、二人は家の中に入って休んだ。濡れたウェアを脱ぎ、囲炉裏の火を盛んに焚いて、しめった身体を乾かす。
  その間、田中は電気はどこから来ているのかと聞いた。
「少し歩いたところに、冬でも凍らない川があってね。水車でタービンを回して電気を起こしている。完全に自家発電さ。あれは二四時間休みなく発電するから、夜の内に蓄電池に貯めておいた電気を大事に使えば、たいていは一日乗り切れる」
  水力発電とか蓄電池とか、そういうのってけっこう高いんじゃないかと思ったが、田中は黙っていた。
  昼食をとった後、山中はどこからか、薄いモバイルノートパソコンを取り出してきた。
「こんなものはもう必要ないと思ったんだが、とっておくと何かしらの役には立つものだね。僕はそっちのパソコンで仕事をしているから、これで退屈しのぎをするといい。インターネットにはつながるから。今や高速無線回線は、こんな山奥までカバーしてくれていてね」
  田中は礼を言って受け取りつつ、お仕事って何ですか、と聞いた。
「ウェブ制作の仕事をしているんだ。現金収入はほとんど全部そこで稼いでいる。対面で打ち合わせした方が顧客には喜ばれるんだが、まあ、僕は生活費の方を切り詰めてるから、そのぶん安く仕事ができて、それを売りにしてる」
  現金はそれで稼いでも、買い物に行くのは大変でしょう、と田中が言うと、
「いや、そうでもない。ネットショッピングで買い物をすると、麓にある郵便局が荷物を取り置いてくれて――過疎地の郵便局だから、頼んだら快く引き受けてくれて――ある程度たまると、僕はそれを取りに行く。あまり大きい物は買えないのはたしかだけど、普通はそれで十分なんだ」
  そう言うと、山中はノートパソコンに向かい――よく見ると、大型で画面の画面の解像度も高く、パワーがありそうだ――彼の言う、仕事とやらを始めた。
  ウェブ制作の仕事をしているってことは、思ったよりテクノロジーに長けた人なんだな、と田中は思った。もしかして、水力発電とか蓄電池とかをここに設置するのも、山中が一人でやったのだろうか。田中はおそらくそうだろうと思った。山中は人に任せるのが嫌いなタイプに見えた。
  そして、田中は山中に言われたとおり、貸してもらったモバイルパソコンでネットを見始めた。大臣が自殺したとか、芸能人が結婚して離婚したとか、ある国で起きた虐殺に国際社会が武力介入を決めた、いつもどおりのニュースがネットにはあふれていた。この二日ほど離れていた俗世間の情報を一通り収集してから、田中は自分のSNSにアクセスしてみた。すると、事情を知った友人達が自分を心配してくれている書き込みがたくさん来ていた。田中は胸が熱くなるのを感じながら、その一つ一つに返信を書いた。
  ウェブメールをチェックすると、上司からも心配するメールが来ていた。だが、よく見ると、一番最新のメールの一番最後には「いつ頃戻ってこられる?」とさりげなく書かれていた。やっぱりそれが気になるんだろうなあ、といささか気分を害されながら、田中は山中に、自分はいつ頃帰れそうかと聞いた。
「天気予報どおりなら、明後日には下山できるんじゃないかな」
  田中は、明後日に下山して三日後から仕事に戻れる、と返信に書こうとして、やめた。下山したら病院で検査しろと言われるに違いないだろうし、そもそも天気だって変わるかもしれない。
  しかしだからといって、あの上司は曖昧な返事を許さないタイプだ。そのくせ、はっきりさせろと言うから仕方なく適当な数字を言わされて、案の定それを達成できないと、怒る。分からないから分からないと言うのに。こういうのをマッチポンプと言うのではなかろうか。
  などと心の中で愚痴を言っていても仕方がないので、田中は思いきり盛って、十日後と書いてメールを送り返した。十日後より早く出社するとまた怒られるので、余った分は休ませてもらおう。いつも思うのだが、こんなことをしていたら世の中は悪くなるばかりではなかろうか。まあ、自分が悪いわけではないので、知らん顔をしておこう。
  午後はそんな風に過ごして、また夕食の時間になった。今度は田中も食事の支度を手伝った。田中が住んでいるアパートはオール電化なので、直火で調理するのは久しぶりな気がした。赤い炎が明るく揺れて、頬に熱をもたらすのを感じると、これはこれでなかなかいい生活かもしれないな、と思った。
「山中さん」
  田中は食事中、思い切ってこう切り出してみた。
「俺、最初は、こんなへんぴなところで生活するなんてそうとう変わった人だな、って思いました。けど、あなたがいろいろ上手くやってるのを知って、普通とは少し違うだけで、これはこれで立派な生活様式なんだな、って、今では感心してますよ」
「そうかい」
  いつもは無表情な山中も、この時は笑みを漏らした。愛想笑いのように見えなくもなかったが、ただ単にぎこちないだけだろうと田中は思った。
「そいつはありがとう」
「でも……一つだけいいですか。今はたまたま俺がいますけど、普段だったら、人と会う機会が全然ないですよね。寂しくはないんですか」
「まあ、ネットでも人付き合いはできるし。それに、俺はもともと人間嫌いだから、これでちょうどいいんだよ」
  田中はその発言に少し、違和感を感じた。
「山中さんが人間嫌い? 俺にはそうは思えないけどな」
「ほう? それはどうして?」
  山中は興味深そうに聞いてきた。
  田中は思ったままを答えた。
「だって、俺を助けてくれたじゃないですか。ここにいる間だって、いろいろ親切にしてくれる。山中さん、とてもいい人ですよ」
  それを聞くと、山中はちょっと笑った。ひっかかるような笑い方だった。まるで苦笑しているような。あるいはまるで、自嘲しているような。
  田中がきょとんとしていると、山中は食事の手を止め、こう言った。
「田中くん。こういうことを言うと、君は不愉快に感じるだろうが……僕はね、君を助けないことだってできたんだよ」
  田中は、その意味するところを理解すると、ぎょっとした。背筋に悪寒が走った。
  そんな田中に、山中はなおも言う。
「あの時、僕はたまたま水車の発電量が落ちたんで、メンテナンスをしに行った帰りだった。普段だったらそんなことは滅多にあるもんじゃない。君を見捨てても、誰も怪しまなかっただろう。僕は責任を取らされることなんてなかっただろう。そう。僕は君を助けないことだってできたんだよ」
  言い終わると、山中は食事に戻った。それから食事が終わるまで、二人は一言も口を利かなかった。田中は、少しはわかりかけていたこの山中という人物が、またしてもわからなくなったと思った。