疲れているはずだったが、田中は日の出前、身体中を刺すような寒さで目が覚めた。とても布団を払いのけて身を起こす気にはなれず、ただ背を丸め、膝を抱えるようにしてどうにか寒さから身を守り、再び眠りに落ちた。
  次に目が覚めると、前の時よりも少し暖かかった。不思議に思い、目を開けて見ると、囲炉裏には赤々と火が燃えていた。火の上には艶のない黒鍋が吊られていて、ぐつぐつと音を立て湯気を浮かべるその鍋からは、味噌汁の塩辛いにおいがした。
「おはよう」
  田中が体を起こすと、木製のおたまで鍋をかき混ぜながら、山中が言ってきた。
「おはようございます」
  田中が囲炉裏の火で温まりながらうとうとしている間に、山中は乾燥した山菜を鍋に放り込んだ。
「今日も味噌汁の具は昨日と同じだ、とか思ってる?」
  田中は、まだ寝ぼけている頭でうっすらと考えていたことを言い当てられた。仙人みたいな人だな、この人は。
  山中は山菜に十分水分が行き渡ったのを確認すると、お椀を取り出してよそい始めた。
「毎日違う物が食べられるというのは、いいことだ……しかし、そのために犠牲になっているものもある」
  田中は、差し出されたお椀を会釈しながら受け取って、こう聞いた。
「……環境問題のことを言っているんですか」
「環境問題」
  山中は、田中が言ったことを、舌で転がして吟味しなければ理解できなかったとでも言うように、その四文字熟語を繰り返してみせた。
「環境問題とは、言い得て妙だな。田中くん、君は環境って何だと思う」
「森とか、海とか、空とか」
「地球上にある、人間でもなければ、その被造物でもないもの、というわけか」
「違うんですか」
「違うというか、不十分だ。田中くん、僕たち人間だって、立派な環境だよ。この囲炉裏も、この家も、僕にとっての君も、君にとっての僕も、みんな環境だ。森や海や空と、同じぐらい大切で、そして、同じぐらい、大切ではない……田中くん、君は僕が熱心な環境問題運動家だと思っている? だからこういう家でこういう暮らしをしているのだと? だとしたら、それは少し違うな。僕は確かに環境問題には関心があるが、運動家ではない。僕は確かに山が好きだ。しかし、それは僕にこういう暮らしを選ばせた、積極的な理由ではない」
「……そうですか。立ち入ったことを聞いたみたいで、すいません」
「いや、いいんだ」
  食事を終えると、山中は、救助本部に電話を入れておくといい、と言って、今度は携帯電話を渡してきた。こんな山奥で電波が入るのだろうか、ときょとんとしていると、やはりそれを見透かしたように、山中は、心配はいらない、と言った。
  電話は無事につながり、救助本部の中年男性が出た。男はまず田中の体調を聞き、大丈夫そうだと知ると、一緒に旅行に来た仲間達からの伝言を伝えた。彼らは予定どおり、今日の午後に帰ってしまうらしいが、田中のことを心配しているという。田中は、まあ仕方がないよな、と思った。みんなで苦労して有給をあわせたのだ。早く帰ってたまった仕事を片付けなければならないだろう。田中も早く帰ってそうしたかったぐらいだ。実際、救助本部の男は今日下山できないかと熱心に聞いてきた。だが、話の流れを察した山中が割って入って、田中の体調は問題ない、それより天候の急変が心配だから、日を改めた方がいいと言った。田中は、なぜか救助本部の男より山中の方が信頼できる気がして、山中に従うことにした。

  電話を終えると、山中は防水加工された服で厳重に厚着をして、片手には大きくて頑丈そうなスコップを二本持っていた。
「雪下ろしをするんだが、体調さえ良かったら、君も手伝ってくれないか」
  田中は山中のことをまだ少し警戒していたが、恩知らずではなかったので、もちろん喜んでやると言った。
「じゃあ、そこにスキーウェアがたたんであるから。ああ、履いてきた靴は使うな。俺の予備の長靴を使うといい。準備ができたら外に出てきてくれ。扉を開ける前に声をかけるのを忘れるなよ。生き埋めになってほしくないからね」
  山中はそう言うと、引き戸を開けて出て行った。粉雪が舞い込んできて土間に落ち、溶けて黒い染みをつくった。