だが、そんな疑問をぶつけることはなかった。田中が一休みして体力を回復させると、男はノートパソコンを使って、救助本部にスカイプでテレビ電話をつないだ。偉そうなおじさんが最初にでて、大丈夫ですか、とか聞かれた。次に白衣を着た医者が出てきて、問診をした。大丈夫だそうだ。最後に一緒に旅行に来た仲間達が出てきた。田中と彼の友人達は、お互いに喜びをどう形にしたらいいのか分からず、いつものように憎まれ口を言い合った。そんな彼らに、あの山小屋の男は、かまどの火加減を調節しながら時々目をやっていた。
  電話を終えると、田中はどっと疲れを感じた。ちょうど、男は夕食を用意してくれていた。白米と山菜入りの味噌汁に漬け物、それから魚の缶詰だった。
「恩を売ろうというわけじゃないが」
  男は缶詰を開けながら言った。
「これでも家では豪勢な食卓なんだ。いつもは缶詰なんか開けないからね。でも、君には栄養を取ってもらわなきゃならないから」
「すいません。お金は今度払います」
  田中がそう言うと、男の表情が少し変わった気がした。
「……いや、気にしなくていい」
  男は、魚は囲炉裏の火であぶってから食べるといい、と言った。
  食べている間、ふと、田中は男の名前をまだ聞いていないことに気がついた。
「……」
  名前を尋ねると、男はなぜか押し黙った。田中が意味もなく戸惑っていると、男はやがて口を開いてこう言った。
「山の中に住んでいるから、山中、でどうかな?」
  田中は目をぱちくりさせて、今度は意味こそあるが、やはり無力な戸惑いを形にして見せた。
「別に名前を教えたくないわけじゃないんだけどね。でも、名前なんてのは、もともとそんなものだよ。田中くんの実家だって、周りには田んぼが広がっているんじゃないの?」
  田中は、自分の両親は郊外のマンション暮らしだと答えた。祖父母は一軒家だったが、やはり郊外の住宅街だった。
「ふむ……ねえ、田中くん」
  山中は箸と茶碗を置き、右手の指と左手の指を絡ませるようにしながら、こう言った。
「君のおじいさんはきっと、地方の農村の次男だか三男だか、あるいはもっと下の方に生まれたんじゃないかな。おじいさんの生まれた家は、田んぼに囲まれていた。でも、君のおじいさんが相続する土地はなかった。それは君のおじいさんのお兄さんのものだからね。で、仕方なくおじいさんは仕事を探しに都会に出てきた。田中という名前だけを、実家から持たされてね」
  田中は、祖父の家族については何も知らないと答えた。
「そうだろう。そうだと思うな」
  山中は、そう言うと、なんだか寂しそうに笑った。

  食事を終えると、山中は田中に、君は横になって少し休んだ方がいい、と言い、自分はパソコンをいじり始めた。電気がもったいないので、と言って、山中は天井の電球を消し、電気スタンドだけを点けていた。囲炉裏の火は落とさなかったので、そこからも赤い光が木漏れ日のように漏れてきた。そういえば、電気はどこから来ているのだろう、と、田中は普段なら気にもとめないようなことを考えた。
  キーボードのカタカタという音に、田中は悶々としていた。助かったのはいいが、自分を助けたのは相当な変人らしい、と田中はここまでの間に気がつくに至っていた。この変人と、この狭い家で何日か暮らさねばならないと思うと、なんだか気が重かった。
  山中の作業はそれほど長くはかからなかった。山中はパソコンの電源を落として、囲炉裏の火を灰の中に埋めると、自分の布団に潜り込んだ。田中とは囲炉裏を挟んで向かい合った位置だ。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
  とにかく助かって良かった、と思いながら、田中は目を閉じた。
  だが、うとうとし始めた時、山中が暗闇の中から話しかけてきた。
「田中くん、まだ起きているかい」
「あ、はい」
「おかしなことを聞くようだけれど、君はさっき、缶詰の話をした時に『お金は今度払います』と言ったよね」
「ええ」
「君は僕を変な人間だと思うだろうが……たとえば、見知らぬ人がある日君の家にやってきて、食う物も泊まる家もないので何か恵んで欲しい、と言われた時、君はお金を請求するのかな」
「……」
「すまないね。変なことを聞いて」
「はあ……」
「経験はない? 家にホームレスが来た経験とか」
「そういう経験はないです」
「どうして?」
「え?」
「どうしてなんだろうね。都会に行けば、ホームレスなんてたくさんいるのに……」
  田中が黙り込むと、それっきり会話が途絶えた。田中は胸にもやもやしたものを抱えつつも、今度は無事に目が覚めると分かっている、安心した眠りの中に落ちた。