「困惑しているみたいだね」
  この家の主らしい、男が言った。見たところ、家は一間で、この男以外は誰もいないようだった。田中はおずおずしつつもうなずいた。
「まあ、無理もないかな。でもまあ、まずは一口飲みなさい」
  男はそう言うと、自分も囲炉裏のそばに置いた湯飲みを取り上げて、中身を一口すすった。
  田中は手の中にある湯飲みをのぞき込んだ。白濁した甘酒が湯気を立てている。甘酒は小学生の頃、正月に親戚の家で飲んだきりだったかもしれない。湯飲みを傾けて一口飲むと、甘みが口に広がる。
「昔の欧米の小説だったら、こういう時はブランデーを飲ませるんだが」
  男が低い声で何か語り始めた。
「そんな洒落たものはここにはないし、それに僕は刺激物が嫌いでね。だから甘酒にしているんだ。江戸時代には、冷やした甘酒は暑気払いにいいとして庶民に親しまれていたそうだし、医学的に見ても甘酒の栄養価は高いらしい」
「……」
  田中は黙って聞きつつも、そんなことは誰も聞いていないんだけどなあ、と思う。
  男がまた口を開いた。
「ところで、早い内に確かめておかなきゃならないんだが」
  と前置きして、男は田中の名前を聞いてきた。それを聞くと、男は安心したようで、
「よかった。君の友人が捜索願を出しているよ。人里では救助隊が集まって大騒ぎさ。落ち着いたら電話して安心させてやるといい」
「すいません」
「いや。だが、すぐには帰れないだろう。ここから人里まで歩けば片道三時間。往復で六時間かかる。予報によれば、不安定な天気はしばらく続くから、救助隊がここまで来て帰るのは二次被害が怖いし、僕一人で君を連れて下山するなら、条件の良い日を選びたいね。救助の連中は君をさっさと病院送りにしないと安心できないんだろうけど、僕の見たところ幸い君は凍傷一つ負ってないし、二、三日ここにとどまってもどうってことはないだろう」
  田中は疑問に思ったことを口に出した。
「車はないんですか」
「なんだって?」
  男は端正な顔をぎょっとさせて聞き返した。
「車です」
「おいおい君、車は道路がなきゃ走れないよ。僕は一番近い道路まで三時間って言ったんだ」
「……」
  なんであんたはそんなところに一人で住んでるんだ? と言いたくなったが、命の恩人に不躾なことは聞かないでおこう、と思った。
「いま、何時ですか」
  代わりに田中はそう聞いた。
「六時だ」
  そう言われても、田中は自分がどれぐらい寝ていたのか分からなかった。
「君が倒れているのを僕が見つけたのが四時半過ぎぐらいだったかな。君は運が良い。あと一時間遅かったら、ほとんど真っ暗だったろうからね。だけど、もう大丈夫だ。ここなら安全だし、水も食料も予備があるから、心配はいらない」
  水も食料も予備がある?
  平和な日本に暮らしていたら決して聞かないような台詞に、田中は少しぎょっとした。この男は、一体どういう暮らしをしているのだろう?