「真。起きているのか」
 声にはもちろん、聞き覚えがありました。
「信一兄さんですか」
 私が問いかけると、返事の代わりに、ふすまがゆっくりと横にずれました。
 寝間着姿でそこに立っていた長兄は、次兄が酒瓶を掲げて見せているのを見ると、怪訝な顔をしました。
「大介……なるほど、お前も似たようなことを考えたか」
「はは。まさか兄さんもとはね」
「まったく。お互いにいい歳をして」
「あ、それ。真にも言われました」
 そう言われた長兄は「それじゃあ、俺も失礼しよう」と言いつつ、苦笑いをして畳に座り、座に加わりました。
 長兄はあぐらをかくと、重々しい口調でこう切り出しました。
「明日にも入隊するつもりだ」
 私は口を開こうとしましたが、その前に次兄が言いました。
「なあ、兄貴。やっぱり、兄貴がそんなに気にすることじゃないんじゃないかな。それに、口の悪いやつは言ってるぜ。英国が新国を攻撃したおかげで、新国が参戦した。新国の力を借りられるようになって、日本は有利になった。英国様々じゃないか」
「大介……確かに、そういう考え方は大いにあるだろう。だが、それとこれとは全く別なんだ。指導者たちの思惑なんて、前線で戦う将兵には、何の関係もない。それとこれとは、全く別のことなんだ」
 次兄は肩をすくめて「分かってるよ」と言いました。
「兄さん、重ね重ね言うのもなんですが……」
 私は言いました。
「昼間、兄さんは外交官の仕事を卑下しておられましたけれども、戦争を終わらせることも、外交官の重要な仕事ではないでしょうか。およそ文明人同士の戦いならば、最後は話し合いによる講和によって終わるはずです。講和の交渉に、外交官は必要なのでは」
 すると、兄はうなずきました。
「そうだな、そのはずだ。これまでもほとんどの戦争はそうだったし、これから先に起こる戦争も、ほとんどはそうだろう……だが、今回のこの戦争は少し違う」
「なぜですか」
「分からない。外務省の同僚たちは、ある者は諸国家の力が均衡しているからだと言い、またある者は、思想や主義の戦いだからだと言う……だが、本当のところは分からない。ただ一つ、誤解を恐れずあえて言えば……この戦争は、勝つよりも負ける方が難しい」
「は? なんだそりゃ? 勝つよりも負ける方が難しいだって?」
 次兄は杯を傾けるのをやめて、そう言いました。一般的な人の、一般的な反応と言えたでしょう。
 ですが、私には、長兄の言わんとしていることが、少し分かる気がしました。
 私と次兄が先をせがむように見つめるので、長兄は続けました。
「そうだ。中世のような、王侯貴族同士の戦争だったら、こんなことにはならなかった……だが、今日の戦争は違う。第一次世界大戦で、列国は国家国民の力を総動員することにより、かつて人類が垣間見たこともなかったほどの、膨大な力を生み出せることを知った……そして、その力がなければ、戦争の勝利はおぼつかないことも知った。だが、国家を総動員するには、当然、国民の協力が不可欠だ。そこで、各国の指導者層は国民に呼びかけた……ある国は、自由主義のもたらす豊かさを国民に説き、自由主義世界を守らなければならないと語った。またある国は、国民が豊かになる唯一の道は社会主義であると掲げた。そして陽虎は、漢民族の優越を喧伝し、漢民族が世界の支配者として君臨する未来を示した。英国も、戦争によって、英国人を含む白人をアジア人の支配から解放すると言っている……しかし、結局のところ、どれも国民を戦争に協力させるための甘言に過ぎない。重要なのは内容ではなく結果だ。指導者たちの思惑は当たった。各国の国民はみな進んで戦争に協力するようになり、反戦的な市民は、役人が取り締まるまでもなく、市井の人々から糾弾されるようになった。男や女は自ら軍人や工員になることを選び、必要な兵員は充足され、軍需品の生産もうなぎ登りだ」
「分かった。陽虎を殺せばいいんだ」
「いいですね。ついでに織田勝も殺しましょう」
 次兄と私が、相次いでふざけた調子で言うと、長兄は微笑みを返しました。
「お前たちも十分に分かっているようだが、だからといって指導者が悪いというわけでもない。指導者は大衆の期待に応えて出現し、行動したんだ。一方で、指導者の働きかけが大衆に与えた影響も無視できない……卵が先か、鶏が先か。全ては相互作用だ。どちらが原因かなど判断がつかん……話を戻すぞ。指導者たちは大義を掲げることで、かつてない力を得た。だが、甘言を弄して国民を動員する政策は、諸刃の剣だったんだ」
「なるほど……」と、次兄が言いました。「国民に戦争の大義を刷り込んできたから、指導者は負けを認めれば責任を問われる……だから負けを認めない。認めることができない」
「しかし」私は少し引っかかるところがありました。「それなら逆に、国民が戦争をやめたいと言ったら、やめられるのでは」
「真。私はそこまで大衆に期待できないと思う」
 長兄はにべもなく言い切りました。
「なぜですか。国民が戦うことや、働くことを拒否すれば……」
「そんなことをすれば、官憲や、時には同じ市民からも掣肘を受ける。能力の問題以前に、そもそもそんな大それた意志を抱くかという問題もある。国民が、戦いを辞めたいと思えるかどうか……何のかんの言っても、大衆はやはり愚かだ……それに、為政者は交戦意志を失わせないため、国民に全ての情報を開示していない」
 私は、前線で戦果の報告がいい加減になっていた現状を思い出しました。
「そんな国民が、ある日突然、この戦争は負けだと言われても、理解も納得もできるはずがない」
 長兄がそう言い切ると、私たち三兄弟の間に、沈黙の帳が降りました。
 長兄はあぐらをかいたまま、視線を下に落としていましたが、目ははっきりと見開かれていました。次兄はどこかふてくされた様子で、酒瓶の首を掴んでいました。
 私は、長兄と話す機会はこれが最後になるかもしれない、と思い、聞きました。