そんな私の黙考を破る音がありました。気配を察すると、私はぐるりと寝返りを打って、ふすまに身体を向けました。木の廊下を、ゆっくり近づいてくる足音。その足音は、私の部屋のすぐ前で止まりました。
「真、起きてるか。俺だ。大介だ」
「兄さん、何かあったんですか」
「なーに。久しぶりに会ったんだ。話がしたいと思ってな」
「いい歳して何を……」
 次兄の大介は、この頃既に嫁をもらっていて、今日も屋敷に連れて来ていました。それを寝室に置いてこんなところに来るとは。宴会がおしゃかになったから鬱憤晴らしに来たのでしょうが、はしゃぐにもほどがあります。
 しかし、私のいさめるような声を聞いても、兄は動じませんでした。
「ただでとは言わん。土産もある」
 そう言うと次兄は、ふすまを細く開けて、そこから手に掴んだ何かを差し出しました。月明かりでよく見えなかったのですが、目を懲らすと、どうも一升瓶らしいと分かりました。次兄は酒豪なのです。
 私が、飛行士という職業柄、あまり酒を飲まないのは兄も先刻承知のはずでした。が、兄としてはつまり、私に対する礼儀を示したいだけだろう、ついでに酒が飲めれば一石二鳥だとでも考えているのだろう、と私は思いました。
 やれやれと呆れつつも、私はとにかく入ってくれと、兄を招き入れたのでした。

 戦争の英雄と一緒の写真だけあって、話を聞いてないじゃ、格好がつかないからなあ、と言って、次兄はやはり武勇伝をせがみました。聞けば、明日は早朝から家を発って仕事に行くのだそうです。次兄は父の下で工場をいくつか経営していましたが、今は軍需品の増産で大忙しだと言いました。中帝の潜水艦がたびたび輸送船を撃沈して生産計画が狂う、なんとかしてくれとも次兄は言ってきましたが、そういうことは駆逐艦に乗り組んでいる三兄に言ってくれと、私は肩をすくめました。
「で、どうなんだ。九州の方は」
「二年前は大変でしたが、最近はちょっと不気味なぐらいに静かです。でも、」
 と、私はさっき点けた電灯を指して言いました。
「こんな風に、目張りもしてない私室で、夜に電気を点けるのは、久しぶりですね」
「灯火管制ってやつか。俺も聞いたな。取引先が九州に工場を持ってるんだが、軍需省は増産しろ増産しろとうるさく言ってくるのに、空軍は灯火管制だから夜間操業の時はああしろこうしろとがみがみ言ってきて、頭にきてるそうだ」
 話の合間合間に、私たちは手にした杯を飲み交わしました。酒は、周辺の村々で穫れた米から作った、地元の銘柄でした。
 話題は戦争のことではありましたが、深夜に部屋にこもってこっそり話をするという状況に、私はどこか、童心に返ったような気持ちになりました。きっと、兄も同じだったことでしょう。
「真。無事に帰って来いよ」
「どうしたんですか、急に」
「九州じゃ中帝の空襲が激しいって言うんで、みんなもう、お前は帰ってこないだろうと覚悟を決めてたんだ。それが、ひょっこり帰ってきた。拾った命だ。無駄にするな」
「……こればかりは。天の采配ですから」
「天の采配か。お前も言うようになったな」
 兄は杯に残った酒を、ぐいっと飲み干すと、言いました。
「戦争が終わったら、お前も嫁をもらわなきゃな。実はもう目星をつけてあるんだ。秘書課に良い娘がいてな」
「よしてください。生きて返って来れたとしても、戦争が終わったら僕は失業者ですよ」
「お前なら、望めば空軍に残れるだろう。郷里の英雄がいつまでも独り身というわけにはいかん」
 三十路を過ぎても若々しい次兄でしたが、妙にお節介なところもあり、私を閉口させました。だいたい、私は戦争が終わってからも軍に残る気などさらさらなかったのです。ただ、だからといって戦後の身の振り方など考えたこともなかったので、私はその点をはっきりさせないまま、次兄の矛先をのらりくらりとかわし続けました。
 その時、廊下を近づいてくる気配がしました。
「誰か来たぞ、明かりを消せ」
 私は、そう言いながらおどける兄を見て、夜間空襲を警戒する上官みたいだと思い、おかしくなり「なぜです?」と笑って返し、身動き一つしませんでした。
 足音は私の部屋の前で止まりました。暗い廊下には、隙間から明かりが漏れているはずです。