父が、いぶかしげな顔で問います。
「どうした、信一」
 長兄は切迫した面持ちで、低く、重々しく言います。
「例の件ですが、いま、お話ししたく存じます」
 それを聞くと、父もやや顔色を険しくしました。
「……お前が外務省を辞めた件か。今でなくては駄目か」
「はい。真が来た以上、早いほうがいいと思いましたので」
 私はびっくりして、横にいた次兄にこっそり聞きました。
「どういうことですか。外務省を……辞めた……?」
 次兄も私に耳打ちを返します。
「俺もいま初めて知った」
 が、そんな落ち着きのない弟たちは無視して、兄は一同を前にして言いました。
「お聞きの通り、私は先日、外務省の役職を辞しました。まずはその理由からお話させてください……父上、私は長いこと、外交官として、欧州畑、特に英国を専門に職務に当たってきました。欧州は、とりわけ英国は、未開の地ではありますが、それだけに可能性に溢れた土地です。私も、祖国日本のため、誇りを持って、自分の職務に打ち込んできました……それだけに、欧州地域の抱えていた問題の平和的解決に失敗し、英国が大陸欧州と、次いで日新と開戦する事態となり、外交官として責任を痛感したのです」
 父は眉間の皺を深くして、手のひらを上げて長兄を制しました。
「待て。いきなりどうした。お前は、交渉の責任者というわけではないだろう。それに、そもそも戦争をしかけてきたのは英国だ。お前は責任と言うが、重く考えすぎだ」
「それだけではないのです」
 長兄は言いました。
「英国が日新と開戦してからこの方、私たち外交官は、どうにかして早期講和できないかと模索していました。しかし、全て無駄だと分かりました……連戦連勝の英国軍は、講和など聞く耳を持ちませんでした。一方の新国はというと、開戦直後には、早期講和を望む有力者も一部で見受けられましたが……『死の行進』があってからというもの、そのような動きもぱったりと途絶えました」
 死の行進とは、イベリア半島を制圧した英国軍が、新国兵捕虜に長距離の厳しい徒歩行軍を強いた結果、多数の捕虜が行軍途上に病死したりした事件のことです。このことは英国軍による大規模な捕虜虐待として新国内で取り上げられ、新国国民はこれにより英国と最後まで戦い抜く覚悟を決めたとも言われています。
「私は自分の無力さを思い知らされました……私たち外交官がしくじったばかりに、今も欧州では、日本や新国の兵が命を落としています。彼らは外交の尻ぬぐいをさせられているのです」
「何度も言わせるな」父は少し声を荒げました。「先に戦争をしかけてきたのは英国だ」
 ですが、兄も食い下がります。
「父上。そんなことが何の慰めになりましょう。いま現に戦って、死んでいく日新の……あるいは、英国の将兵に。もちろん、英国のしていることは許せません。しかし、我々もまた傲慢でした……私たちは、日新が強く出れば、英国は引き下がると思っていたのです。私には新国に滞在した経験もありますから、彼の国の潜在的な国力もよく分かっていました……同じことを英国もよく知っていると、だから戦争などしかけてこないだろうと、そうとばかり。しかし、英国は想像以上に強かった……父上、最近、私は時々こう思うのです。もし、逆の立場だったらどうだろう、と」
「いきなり何の話だ」
「聞いて下さい……もし、もしもですよ。欧州が世界の先進国で、アジアが未開の地だったとしたら。追い詰められた新興国が日本で、それを迎え撃つのが英国や、欧州系入植者が多く住む新国だったなら……父上、日本は同じことをしたのではないでしょうか。たとえば、中国や、南太平洋の島々に兵を送ったり……」
 実直な人柄の長兄が、こんなとりとめもない話をするのは、かつてないことで、私を始め、皆が驚いたような、おっかなびっくりな目で長兄を見つめていました。ただ、私には、兄の言う「逆の立場だったら」という言葉が、強く印象に残りました。
 その中で、父だけが、一歩もひるむことなく冷静に、長兄の目を見つめ返していました。
「馬鹿な話はやめろ」父は長兄の言葉を遮りました。「どうしたんだ。お前らしくもない。さっきから話に脈絡がないぞ」
 すると、長兄は一拍押し黙り、意を決したように言いました。
「父上……私は陸軍に志願するつもりです。戦争を防げなかった責任を取ります」
 それを聞いて、場の空気が凍り付く中……父はただ、感慨深げなため息を漏らすのみでした。
「そうくると思っていた。お前の気持ちはよく分かった。武運長久を祈ろう」
 長兄はそれを聞いて、深々と頭を下げました。