しかし、まずは順を追って話を進めるものとして、そのことは後で語ることにしましょう。
 一方の欧州では、一九四一年七月、英国が華南の植民地だった北アフリカのモロッコに進駐すると、新国は英国に対して経済制裁を行い、両国の緊張はいよいよ高まりました。経済制裁は石油禁輸を含む厳しい内容で、英国は追い詰められつつありました。英国は欧州において泥沼の戦争を続けていて、そのためにどうしても石油を必要としていましたが、新国は、英国が大陸欧州に打ち立てようとしていた覇権を、絶対に容認する気はなかったのです。
 両国は平和的解決の道を探っていましたが、植民地を獲得しなければ経済が行き詰まってしまう英国と、大陸欧州への足がかりを失いたくないだけでなく、英国が大陸欧州で行っている蛮行を見聞きして憤っていた新国は、どちらも譲歩する余地はありませんでした。
 日本の報道において、この新英交渉の扱いは必ずしも大きくはありませんでしたけれども、それでも、毎朝のように新聞をめくる余裕ができた私は、交渉の行方を穏やかではない気持ちで見守っていました。
 日本にしろ新国にしろ、英国をみくびり、油断していると、当時の私は幾度となく思わされました。
 新聞記者の、こんな傲慢が紙面に透けて見えました。
「英国はいまや列強の末席を占める地位にあるとはいえ、しょせんは欧州の未開の国。一流国である日新にかなうはずがない。それを英国もよく分かっているから、こちらが強気に出れば英国は必ず引き下がる」。
 私はそうは思いませんでした。幼少期の英国滞在は、ほんの短い期間ではありましたが、私に英国民の強さに対する深い印象を刻みつけていました。また、十代の頃、英国に対する関心が人一倍だった私は、近代英国が経験した二度の戦争についての書籍も数多く読んでおり、英兵の精強さをよく知っていました。
 為政者の決断によっては、戦争になるかもしれない……私は本気で、そう危惧し始めました。そうなればきっと、今はもう立派な男になっているであろう、私の手を導いてくれた少年たちや、良き母親になっているであろう、あの美しい女性とも戦うことになる……そのことを、私はとても恐れました。
 しかし、同時に、不思議な気持ちが胸の中にうずくのを、私は止められませんでした……それは、面白い、というものでした。できることなら、戦ってみたい……あの英国人たちと、と。

 

 そして、私の危惧は……あるいは期待は……現実のものとなり、一九四一年十二月七日、英国軍は大西洋・アゾレス諸島にある新国海軍の基地を奇襲攻撃し、欧州戦線の幕が上がりました。
 それから半年間に渡って続いた、英国軍の快進撃は、まさしく目の覚めるような鮮やかさでした。アゾレス奇襲攻撃とほぼ同時に、英国軍はイベリア半島に点在していた、アジア列強の植民地に上陸。これは、当時としては史上最大規模の上陸作戦でした(わずか二年半後に、新国軍によって記録を破られますが)。
 英国軍の狙いは、まず地中海を制圧し、次いでアラビア半島の油田地帯へ向かうというものでした。地中海という海は、その名の通り、ユーラシア大陸とアフリカ大陸に全周をすっぽり囲まれています。外海とつながる海路は二つ。西方のジブラルタル海峡と、南東のスエズ海峡です。言うまでもなく、この二つの海峡は戦略的要衝であって、それぞれ日本の要塞が築かれていました。しかし、英国軍は、両方の要塞を翌一九四二年の早い時期に攻略してしまったのです。
 始め、ジブラルタルの日本軍要塞が降伏した時、私は「おお、やはりか」という感想を持ちました。この事件は日本を意気消沈させ、世界帝国としての日本の終焉をこの上なく強く日本人に意識させるものでしたけれども、私はかえって、やはり自分の英国に対する見立ては正しかったと、内心で喜んでいたのでした。
 ところが、それからほとんど時を置かずして、英国軍はスエズ要塞さえも攻略してしまいました。これは私にも予想外のことで、思わず目を見張らせられました。日本が神聖ローマ帝国を破ってからの一〇〇年、かつての古代ローマ帝国の揺籃、地中海は、ずっとアジア人の手中にありました。しかし、この時を以て、英国人がアジア列強を追い出し、地中海の覇者となったのです。
 もちろん、それは招かれざる覇道でした。長続きもしませんでした。
 しかし、それでも私は、スエズに翻る英国旗(ユニオンジャック)を脳裏に思い浮かべて、その背後に後光を見いださずにはいられませんでした。
 彼らは証明したのです。白人は、アジア人に踏みつけにされ続ける劣等人種などではなく、必要な時が来れば、愛する人のために勇敢に戦うことのできる、立派な人間であると。
 ただ、先ほどの私自身の言葉をもう一度持ち出すなら、その愛はやはり、腐っていました。英国がとった過酷な占領政策や、捕虜に対する虐待が、その事実を端的に示しています。
 しかし、迷いの時期がなかったわけではありませんけれども、私の親英感情がなくなってしまうことはありませんでした。そして、戦後、長い時間をかけて、英国人が「もっといいやり方」を実践しているのを眺める間、私は、ずっと親英家でいて良かったと、心の底から思いました。もっとも、戦時中から終戦直後にかけて、日本人の反英感情は峻烈を極めた感があり、私としても、あまり大きな声で親英を呼びかけるのは、かなり憚られる状況が長く続きましたが。
 話を戻しますが、しかしあの戦争においては、英国の天下は儚いものでした。一九四二年の六月、開戦からわずか七ヶ月後に、英国軍はマデイラ海戦で大敗北を喫します。英国海軍はこの戦いで、戦力の要である主力空母の大半を喪失しました。これにより、以後の英国海軍は航空戦力を自由自在に機動させられる母艦を失い、戦局の主導権を失ってしまいました。新国軍が反撃のための戦力を整えてから以降の戦闘は、空母がないために仕方なく各地に分散配置された英国軍の航空機に対し、予測不可能な場所に突如出現し、大挙して押し寄せる新国の空母艦隊に、英国軍は一方的に蹴散らされていきました。
 だからといって、マデイラで英国が勝利していれば……というわけではありませんでした。開戦から終戦までの四年足らずの間、英国はついに開戦時の機動戦力を再建できなかったのに対し、新国は十隻以上の空母を建造せしめていたという、圧倒的な国力の差があったのですから。

 一方の北部戦線は、一時はスボールの首都のすぐそばまで中帝軍が迫りましたけれども、厳しい冬の訪れによって、中帝軍は一時後退を余儀なくされ、冬の間は戦線が膠着状態に陥っていました。年が明けて春が訪れると、中帝軍は侵攻を再開しましたが、前年ほどの大勝利は得られませんでした。