下関基地に戻ると、新たな日々が私を待ち受けていました。連合軍の朝鮮上陸は来年中に始まると思われたので、私たちは猛訓練に明け暮れました。最初は頼りなかった新米たちも、みるみる腕を上げていきました。また、二機編隊二組を組み合わせた四機編隊を基本とする、中帝軍の戦術を本格的に取り入れたのも、この時のことです。

 そして、明くる一九四三年夏、私たちは朝鮮軍の航空基地を空襲するため、払暁を合図に飛び立ったのを皮切りに、意気揚々と朝鮮攻略を開始しました。
 が、意外なことに、朝鮮戦線はあっけないものでした。上陸時こそ、私たち戦闘機隊は朝鮮空軍機の激しい抵抗を受けたものの、その後、日新両軍を中心とする連合軍が釜山に橋頭堡を築くと、朝鮮国民は自ら独裁政権を倒して、和睦を申し出てきたのです。
 その知らせを聞いたとき、私たちは歓喜に沸き立ちました。朝鮮半島の付け根にある鴨緑江という川を越えれば、陽虎のいる北京は目と鼻の先でした。北部戦線では、スボールが中帝軍の将兵十万人を包囲して降伏に追い込む大勝を挙げるなど、力を盛り返して反撃に出ていましたし、欧州でも、新国軍が北アフリカに上陸し、英国軍の激しい抵抗をどうにか跳ね返して、橋頭堡を築きつつありました。四年間続いていた戦争に、ようやく終わりが見えたと思ったのです。
 ところが、中帝の反応は素早いものでした。朝鮮が降伏するや否や、中帝は昨日まで同盟国だったはずの朝鮮に侵攻、半島北部の山岳地帯を占拠し、そこに厳重な防衛線を引きます。険しい山々に立てこもって戦う中帝軍の精鋭を前にして、朝鮮戦線は膠着状態に陥ってしまいました。
 あまりにも堅い防御に、連合軍はそれ以上の朝鮮方面での攻勢を断念。
 このことから、連合軍は新たな上陸作戦の検討を始めました……それが、今も史上最大の上陸作戦として名高い、華南上陸作戦です。

 

 当時、台湾は日本の植民地でした。航空決戦の最中には、九州に負けず劣らず激しい空襲を受けましたが、どうにか持ちこたえ、一九四四年には、空襲からの復旧も進んでいました。
 ある日、私の飛行隊は台湾への移動命令を受けました。中帝の潜水艦に狙われるんじゃないかと、おっかなびっくりしながら船で渡った私たちを待ち受けていたのは、狭い台湾島のあちこちにこれでもかと溢れかえる、新国兵の群れでした。
 そう、連合国はこの時、台湾を足がかりに中国大陸へ、それも中国南部の華南共和国領へと上陸する準備を進めていたのです。
 私たちは、機体を受領するとすぐさま訓練飛行や哨戒飛行を始めました。空に上がった私は、眼下の海を埋め尽くさんばかりの、夥しい数の上陸用舟艇を目にし、この戦争の勝利を確信しました。同時に、これだけのものがこちらにあると知れば、中帝もまた自ら和を乞うてくるのではないかと思うと、口惜しくなりました。眼下の光景を写真に撮って陽虎に送りつけたいところでしたが、もし実行していたら、私は銃殺になっていたでしょう。