一九四一年春、天候が回復してからも、中帝軍の空襲はさして勢いを盛り返すことはありませんでした。この時期の中帝軍はモンゴルへの侵攻を準備していたのですから、さもありなんというところでしょう。
 しかし、この時期には、無視できない変化がありました。それは、中帝軍の新鋭戦闘機「林狼一九〇」の登場です。
 角張った輪郭をしながらも、どこか優美な印象のある山飛一〇九と違って、林狼一九〇は、その図太い鼻先といい、寸胴体型といい、どことなく野卑な感じを受ける外観を持っていました。が、性能は折り紙付でした。垂直機動力は山飛一〇九以上のものを持っていましたし、横転の速さは、おそらく世界最速だったと言って差し支えないでしょう。高高度での戦闘と急旋回が不得手でしたが、逆に言えば、それに持ち込めなければ我々は苦しい戦いを強いられました。
 私自身、対馬海峡上空で林狼一九〇と相まみえた時には、幾度も辛酸を舐めさせられました。垂直機動はもちろん、水平機動でも、林狼一九〇特有の横転の速さを利用して、右に旋回したかと思うと左に切り返し、また右に、左にと切り返しを多用されると、横転性能で劣る吐炎では全く追随できなかったのです。私も、乗機を撃墜されて海に落ち、命からがら漁船に助け出されるという経験をしました。
 山飛一〇九の新型に対抗するために配備された「吐炎五型」も、林狼一九〇には苦戦を強いられ、この状況は、翌年に最新の「吐炎九型」が出現するまで続きました。
 また、中帝軍の潜水艦隊も日本を苦しめました。中帝の潜水艦は、植民地や新国から来航する輸送船を次々に撃沈し、日本を干上がらせようとしました。これにより国民生活は少なからず影響を受け、後にあの勇猛果敢な織田勝首相に「中帝軍の上陸は防げると、私には最初から分かっていた。私が恐れていたのは唯一、潜水艦だけだ」とまで述懐させるに至ったのです。先述したように、私の三兄の命を奪ったのも、潜水艦でした。

 

 六月、中帝軍はスボールと開戦しました。これを受けて織田勝首相は「我が軍の秘密兵器をご紹介しましょう……陽虎です!」と言い放ったとか言われますが、たちの悪い皮肉はともかく、それ以降、日本への攻勢がいっそう弱まったことは事実です。
 さて、日中航空決戦において、双方が甚大な痛手を被ったことは既に記した通りです。が、中帝とスボールが戦った「北部戦線」において吹き荒れた虐殺の嵐は、日中航空決戦が子供の運動会に見えてしまいかねないほどに、過酷なものでした。
 なぜそうなったのか……強いて理由を挙げるなら、きっかけは、モンゴル人を始めとするこの地域に住む諸民族を、劣等な蛮族として考えていた、陽虎の危険思想にありました。また、スボールが理想として掲げる共産主義と、陽虎らの国家社会主義が、不倶戴天の敵同士だったことも、それら虐殺の理由の一つでしょう。
 いずれにせよ、緒戦において、中帝軍は大勝利を収め、スボールの広大な領土を占領します。が、そこで陽虎の親衛隊は虐殺を繰り返しました。ことに歴史上の様々な経緯もあって、猶太(ユダヤ)人は明確に民族浄化の対象になりました。多くの猶太人が中帝に捕らわれ、生きるに値しないなどという不当な烙印を押されたその他の人々と共に、工場で廃棄物を処理するかのようなやり方で、次々と殺されていきました。降伏したスボール兵捕虜への中帝の処遇も過酷で、多数の将兵が収容所で死亡しました。
 そのこと自体は確かに、非難されるべき邪悪な行いです。ですが……一九四三年から反撃に転じた時、スボールが中帝軍の蛮行に対して行った復讐も、また酸鼻を極めました。