さて、いよいよ「日中航空戦(三)」が掲載され、第一部完結となりました。

これまでは先の展開のネタバレにもなってしまうからと避けていたのですが、ここで作中の「日中航空決戦」のモデルになった史実の「バトル・オブ・ブリテン」の全体像を解説したいと思います。

 

 

1940年春、ドイツはフランスを攻略し、次なる目標を英本土上陸に定めて爆撃を開始。それを英国空軍が迎え撃ったのが、バトル・オブ・ブリテンである、というのは、既に何度か解説したとおりです。

 

今回は、バトル・オブ・ブリテンがどのように進行したのかをまとめていきます。

 

前夜

フランスを失ったイギリスは、今や欧州ではナチスドイツに対してまともな抵抗を続ける唯一の国となっていました。

 

ポーランド、ノルウェー、フランスを短期間で下したドイツ軍の実力を目の当たりにしたイギリス側では、講和を求める声が大きくなりますが、結局は徹底抗戦を選びます。

 

ヒトラーはイギリスが講和に応じると信じていたようで、イギリス本土上陸の準備を実際にはほとんどしておらず、この段階になってまごつきながら準備を始めています。

 

また、ドイツ空軍は強力ではありましたが、その能力は欧州大陸で陸軍の戦闘を支援する任務に特化していました。

 

640px-Messerschmitt_Bf_109G-10_USAF具体的には、戦闘機は渡洋攻撃に必要な航続距離を持たず、また爆撃機も、速度や生産性を重視していたということなのか、都市を丸ごと焼き払うほどの爆弾を一度に搭載することはできませんでしたし、敵が守りを固める都市の上空に突入するには必須のはずの防御性能も、それほど高くはありませんでした。

 

 

ネクラの大将 ヒュー・ダウディング英国戦闘機軍団司令官

451px-Hugh_Dowding対するイギリス側は、戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将が準備を整えて待ち構えていました。ダウディングは間違いなく今次決戦におけるイギリス側の勝利に大きな貢献を果たした人物なのですが、人付き合いが苦手だったそうで(日本語で言う「ネクラ」みたいな悪口も言われていたみたいで)、非常に不遇な軍歴をたどった人物です。

 

ある時は「戦闘機など要らぬ。戦闘機を作る金と資材があるなら爆撃機を作れ」という声をはねのけて戦闘機を量産して恨みを買い、またある時は「フランスがピンチだ。援軍を送れ」という声に対し、本土防衛のための戦力を温存するために抵抗して恨みを買います。そういう積み重ねが祟ったのか、ドイツ軍の空襲が一段落すると、そのことが明らかにイギリスの勝利を意味するにもかかわらず、なぜか左遷されてしまったという、真に不遇としか言いようがない将軍でした。

 

また、戦闘機軍団司令官というと、今でこそ大変名誉な職と考えられていますが、当時は爆撃機の方が注目度が高く、ダウディングの戦闘機軍団司令官着任を「左遷であった。彼は本来、空軍参謀長(空軍トップ)になるべき人材だった」とまで語る人もいるほどです。

 

そんなダウディングの功績は、後に詳述する戦闘機軍団の指揮もさることながら、開戦前の段階から、本土防空戦が必要になることを見越して、着々と準備を進めてきたことにもあります。前回の記事で紹介した、スピットファイアなどの戦闘機の開発にも一部関わっていたという話ですからね。

 

また、世界初となる、レーダーを中核とした対空早期警戒網を整備したのも、ダウディングの功績とされています。

当時、レーダー、つまり電波を利用して遠距離から航空機の接近を探知する技術については、ドイツなど一部の国も既に持っていました。

 

Plotting_Tableが、そのレーダーを集中して組織的に運用し、さらに各地のレーダーが探知した情報を一カ所に集約して照らし合わせ、戦況を正確に把握し、それを元に配下の戦闘機隊を指揮するという、高度に組織化された防空システムを実用化したのは、この時のイギリスが最初でした。

(画像は当時の防空指揮所)

 

当時のレーダーは飛行機が陸地上空に入ると捕捉を続けることができなかったので、内陸部にも有志を募って監視所を設営し、これもまた電話を引いて指揮所といつでも連絡がつくようにするなど、その用意周到さは並々ならぬものでした。

 

これによりイギリス空軍は、レーダーが一つや二つばらばらに動いているだけでは到底不可能なほどの高い効率で迎撃戦闘を展開することができたのです。

「空襲に気づいた時にはもう手遅れ」というそれまでの常識を打ち破って、ドイツ軍爆撃機が行く先々で、イギリスの戦闘機は待ち伏せをしかけることができるようになりました。

 

また、実業家のマクスウェル・エイトケン・ビーバーブルック卿が航空機生産大臣に任命され、民間企業で培ったノウハウを駆使して、空軍のお役所仕事を縦横無尽に引っ張り回し、戦闘機の生産数を飛躍的に増大させたのも、イギリス側の勝因の一つとなりました(ちなみに、普段は敵が多いダウディングに対し、なぜかこのビーバーブルック卿は好感を持っていたそうです)。

 

ただ、熟練パイロットだけは急には補充できず、この点には散々苦しめられることになります。

 

 

戦闘の経過

戦いは当初、海の上や港湾の上空で行われました。これは当初、ヒトラーがイギリスとの講和を望んでいたため、本格的な空襲を控えていたからです。

 

が、イギリスに講和の意志がないと知ったドイツは空襲を本格化。

1940年8月以降、空襲は日に日に激しさを増し、8月下旬に入るとドイツ軍は戦闘機の基地や工場に攻撃を集中するようになります。これはイギリス軍には相当こたえたようで、この時期は俗に「戦闘機軍団の危機」とまで呼ばれます。

 

この間のダウディングの注目すべき用兵に「戦力の小出し」というのがあります。

どうやらダウディングは「ドイツ軍の爆撃機を脅かせるだけの戦闘機を温存し続ければ、ドイツ軍の英本土上陸を十分に牽制できる」「つまり、無理をしてまでドイツ空軍に打撃を与える必要はない」と考えていたようで、一度の空戦に必要以上の兵力を割こうとは決してしませんでした。また、ドイツ軍編隊に爆撃機が見当たらず戦闘機だけである場合、戦闘機隊は交戦せずに引き揚げろとも厳命していました。

 

このことが一部の部下には大変不満だったようで「大編隊を集結させてぶつけろ」などと反論もあったようですが、実際にそうしていたらイギリス空軍の損失は埋めがたいものになっていたかもしれませんし、そもそも時間をかけて大編隊を集結させている間に、敵は爆撃を終えて飛び去っていた可能性も指摘されています。

 

British_and_German_aircraft_a_dog_fightまあ、結果的にイギリスが勝っているということを考えれば、ダウディングの用兵が間違っていたと頭ごなしに考えるのは、なかなか難しいのではないでしょうか。

(画像は空中戦によってできた飛行機雲だそうです)

 

ただ、ダウディングがそのように戦力の温存を図っても、イギリス空軍の損耗は著しいものでした。

戦闘機の機体の方は、先述のビーバーブルック卿が辣腕を振るっていたゆえにまだどうにかなっていたものの、パイロットの不足は殊に深刻で、訓練期間の短縮につぐ短縮を繰り返すなど、末期の日本軍を思い起こさずにはいられないような、相当に追い詰められた状況だったようです。

 

ちなみに、もう一つ触れておきたいのは、外国人パイロットの存在です。

この時期の英国には「ナチスドイツへの抵抗に協力するぜ!」的なノリで集まってきたパイロットが大勢いて、戦闘機に乗っていました。ほとんどがカナダやオーストラリアなど英連邦諸国……一昔前まで大英帝国の植民地だった地域の出身者でしたが、中にはアメリカ人や、ドイツに祖国を占領されていたポーランド人やフランス人もいました。

彼らの数は決して多くなく、戦局を変えたとはっきり言えるほどではありませんでした。が、今も英国空軍がバトル・オブ・ブリテンを振り返る時、戦死者数から彼らを省くことは決してありません。

 

 

転換点:ロンドン誤爆とロンドン空襲

ドイツ軍が攻撃目標を戦闘機軍団に絞ってきたことにより、イギリスは敗北の一歩手前にまで追い詰められたとされます。

 

が、その時、偶然に起きた出来事が、戦局を大きく動かします。

夜間空襲に来ていたドイツ軍の爆撃機が、航法のミスから当初の目標を大きく逸れて、ロンドン市街地を誤爆してしまったのです。

 

「いやそれわざとだろw」と思った方もいるでしょうから、ちょっとここは詳しく説明します。

まず、当時の航法は、人力に頼るところが大きいお粗末なものです。人工衛星を使うカーナビなんてもちろんないですし、飛行機は「星の位置を確認して~」なんて余裕もありませんので、地図を頼りに目印を見つけて飛んだりということをやっています(戦争中の急激な技術開発により、優れた電波航法が発明されますが、それもこの時期にはまだ全ての爆撃機に行き渡っていませんでした)。

なので、目印を見失うとあらぬ方向に飛んでいってしまったりします。当時の様子を描いた映画などでも、爆撃機の航法士が目印を見失ってしまったばかりに護衛機との合流に失敗し、迎撃に来た戦闘機にボコボコにされるシーンなどが描かれています。

 

さらに、現代を生きる我々には驚きですが、当時ヒトラーはロンドン爆撃を厳しく禁じていました。「国力の再建が途中のまま開戦してしまったドイツが戦争に勝つには短期決戦しかない」ということを珍しく正確に認識していたヒトラーは、戦争の泥沼化を恐れるがために都市への戦略爆撃を禁じていたのです。現に、ドイツ空軍のロンドン誤爆を知ったヒトラーは激怒したと言います。

 

しかし、そこはチャーチル爺さん(*注:英国首相)の方が一枚上手というかなんというか。彼はロンドン誤爆の報復という名目で、爆撃機にベルリンを空襲させました(ベルリンとかどうやって!? と思うでしょうが、当時イギリスはその手の戦略爆撃機にやたらとご執心だったのです)。

 

空襲の被害は大したことがなかったのですが、ヒトラーはこれに対して部下の不始末以上に大激怒。報復として、爆撃目標をロンドン市内に集中するよう指示を出します(チャーチルの目論見どおり?)。

 

Bombing_of_Londonこれによりロンドン市は大きな被害を受けますが、逆上したイギリス国民の士気はむしろ高まったとされますし、また戦闘機軍団への攻撃が手薄になったことにより、態勢を整えるための貴重な時間も生まれました。


 

 

さらに、ドイツ軍はロンドンへの爆撃を続けますが、ロンドンはそれまで目標にしてきた港湾都市や戦闘機の基地よりも内陸に位置するため、その分だけ到達に時間がかかり、イギリスの戦闘機に大挙集結して待ち伏せするだけの時間的余裕を与えることにもなりました。

 

以上の理由から、ロンドン爆撃は、ドイツ側の重大な作戦ミスだったとされます。

 

 

バトル・オブ・ブリテンの日とその後

そして迎えた1940年9月15日。ドイツ空軍はロンドン市に対して大規模な空襲を行い、この日ばかりはとイギリス空軍も全戦力を出撃させ、総力を挙げて迎撃します。参加兵力は、双方合わせて1700機を越えたといいます。

 

この決戦により、ドイツ空軍が壊滅したというわけではありませんでしたが、ドイツはこれ以降、叩いても叩いても出てくるイギリスの戦闘機隊を屈服させるのは困難、と思い知るようになります。

その結果、ドイツはイギリス本土上陸作戦を断念。イギリスは本土防空戦に勝利したのです。

 

これによりドイツの不敗神話は崩れ、戦況を遠くから眺めていたアメリカ人なども「自分たちが手を貸せば、イギリスはこの戦争に勝つのではないか」と考え始め、これは後に1941年末の参戦に繋がります。

 

 

一方のドイツはというと、この頃、東のソ連と不可侵条約を結んでいたものの、いずれはソ連も侵略する気でいました。

徹底抗戦の姿勢を崩さないイギリスを見て「イギリスが強気なのは、ソ連がドイツを攻撃することを期待しているからでは」などとヒトラーが妙な考えを起こしたこともあり、翌1941年、ドイツは不可侵条約を破ってソ連に侵攻。

しかし、この無謀な戦線拡大が、真にドイツの息の根を止めることになったのは、歴史が教える通りです。

 

まとめ

バトル・オブ・ブリテンはなぜか妙に私の心をかき立てるものがありまして……

 

見てきたように、バトル・オブ・ブリテンのイギリス側の勝利は少なからず、ドイツ軍の失策によるところがあります。

 

それでも、攻撃優位と言われる航空戦の世界で、あれほどまでに強力な防空戦を繰り広げたイギリス空軍の奮闘は、現代の我々に示唆を与えてくれることが多いと感じ、僭越を知りつつ、この戦史を日本に紹介できたら、という思いがありました。

 

また、その後のイギリスがたどった道も、現代の日本を生きる我々にとって興味深いものです。

 

バトル・オブ・ブリテンでは、イギリスは一方的に守る側で、ドイツの都市に対する空襲はほとんどありませんでした。

ところが、独ソ戦の開始、アメリカの参戦などを通じて、イギリスはドイツの諸都市への夜間空襲に傾注していくことになります。


 

Bundesarchiv_Bild_146-1994-041-07,_Dresden,_zerstörtes_Stadtzentrumバトル・オブ・ブリテンではロンドンへの空襲に憤ったイギリス人でしたが、今度は彼らが、ドイツの都市をがれきの山に変えていく側に回ったのです。

(画像は爆撃後のドレスデン市。Wikipedia「ドレスデン爆撃」より。2013/08/16閲覧)


 

初めは、純粋に守るために戦ったつもりだったのに、いつの間にかやっていることが変わっている……

 

当時のイギリス人がどういう思いで戦況の変化を見ていたのか、私にはよく分かりませんけれども、その戦史はまた一つ我々に、なにがしかの示唆を残してくれるような気がします。