emotion_and_control何ヶ月か前にも私は「小説講座番外編その1」と題した記事を掲載した。本来ならコラムを掲載しなければならないスペースに、私は小説講座の出張編を載せたのである。

 

その時、表題に「その1」と書き記したのは、軽いシャレのつもりだった。まさか、数ヶ月後に「コラムのネタがちっとも思い浮かばない」という理由で「その2」を掲載するハメになるとは、夢にも思っていなかった……というのは、ちょっとした嘘で、本当は心の底で、薄々こうなるんじゃないかと思ってはいたのだが。

 

というわけで、今回は「衝動と抑制」と題してお送りしたい。

 

 

書き手の心の中でせめぎ合う二つの要素

ここでいう「衝動」と「抑制」とは、小説を書くとき、心の中でせめぎ合う二つの要素のことである。

 

「衝動」とは、書き手の心から沸き上がってくるようなもので「これを書きたい」というような強い思いだ。特に、外的要素に影響されにくいような、作者の内的な衝動のことを言う。

 

これに対する「抑制」とは「衝動」の行き過ぎを抑え「読者が読みたいものを書く」ように仕向けるような、書き手の心の中の動きである。

 

ほとんど全ての作品は、書き手の衝動から生まれる。小説を書くという作業は、大抵の人にとっては楽なことではないので、衝動なしで作品を最後まで書き上げるのは難しい。

 

一方で、その衝動が行き過ぎると、作品は、作者以外には理解できないような、身勝手なものになってしまいがちだ。

 

そこで抑制が必要となる。作者は衝動を原動力として作品を書き進める一方、抑制を働かせることにより衝動の暴走を抑え、作品の内容を、読者が楽しめるような範囲にとどめる。

 

かといって、抑制を効かせすぎてもいけない。衝動を抑えつけ過ぎた作品は、作者にとってだけでなく、読者にとっても、面白みのない作品になりがちだ、とまで言われることもある。

 

おそらく、衝動と抑制は、どちらが良い悪いというものではなく、その両者をバランス良く調和させることが、良い作品を書く上での条件だ、ということなのだろう。

 

以上が、衝動と抑制の概略である。

 

「衝動」「抑制」をどう考えるか

とはいえ、案ずるは易し、行うは難し。衝動と抑制のバランスを取るのが大事だとは思っても、どの程度のバランスが最適なのかは、実際に小説を書いていく中で学んでいくしかない。

 

というわけで、後は「とにかく書け」というだけなのだが、そうは言っても、たびたび立ち止まって考え込んでしまうのが人情というものだ。

 

たとえば「一体、いま俺が書いている小説は、衝動が足りないんだろうか、それとも、抑制が弱すぎるんだろうか」と思い悩んでしまったり、あるいは「抑制をもう少し効かせた方が良い気はするのだが、本当にそれでいいんだろうか。衝動を前面に押し出した方が、良いものができるんじゃないか」などと、そもそも前提を疑いにかかったりしてしまう。

 

「衝動」と「抑制」に対して、どういう風に考え、付き合えばいいかについては、私にとっても長年の謎だった。衝動が行き過ぎた作品は、どうにも読むに耐えないし、かといって、抑制を強めすぎた作品では、自分が書く意味がない気がする。

 

でも、最近は、衝動と抑制、それぞれについてちゃんと向き合えるような態度を、見つけられたような気がしている。

 

「衝動」との付き合い方

最近の私は、衝動とは「いかに自分を大切にできるか」を問われているものだと思っている。

 

そもそも、自分を大切にすることは、自分勝手になることとは違う。

 

確かに、時として、自分を犠牲にして他者のために尽くす人は、献身的として褒め称えられるかもしれない。しかし、それも程度が行き過ぎると問題だ。なぜなら「あの人は献身的で素晴らしい」と褒め称える人が、次に口にするのは「あなたもあの人を見習ってはどうですか」であろうからだ。

 

自ら進んで人のために尽くすことは、遠回しに「あなたもそうしろ」と言っているように受け取られる場合もあると、私は思う。無論、だからといって自己犠牲をするなとは言わないが、ほどほどにしておくのがいいだろう。

 

このように、自分を大切にしないことが、巡り巡って他者を大切にしないことにつながったりすることもある。

 

だから、裏を返せば、身勝手にならない範囲で自分を大切にすることは、遠回しに他者を大切にすることにもなると、私は考えている。

 

確かに、自分を大切にする人が必ずしも他者を大切にするわけではないのだが、かといって、日常的に自己犠牲を繰り返す人のそばにいても、私はなんだか落ち着かない気分になる。

 

小説の話でいうなら、作者が自分を犠牲にして書いた小説を読まされると、読者は「私が仕事のためにこうして自分を犠牲にしているんだから、あなたもそうしなさい」と言われていると感じかねないのではないか、と私は思う。少なくとも、私はそんな小説は読みたくない。

 

むしろ私が読みたいのは、作者が作品を通して「私はいま、こんなにも自由だ」と伝えてくれるような小説だ。そんな作品は、読者にも「もしかしたら、自分も自由になれるんじゃないか」と思わせてくれるかもしれない。

 

そういうわけで、私は、衝動とは「いかに自分を大切にできるか」を問うものであり、作者が自分を大切にすることで、間接的に読者を大切にすることができる、そういうものだと思っている。

 

「抑制」との付き合い方

最近の私は、抑制とは、作者が「どこまで読者に尽くすことができるか」を問われているものだと思っている。

 

これから、私は前項とは真逆のことを書くので、もしかしたら面食らう方もおられるかもしれない。が、その辺は最後でちゃんと説明させてもらうので、まずは読み進めてもらいたい。

 

話を戻すと、抑制を効かせるとは、作者が自分を抑えて、読者に尽くすことである。

 

抑制の強弱が問題になるのは、多くの場合、書き手は抑制を強めることをためらうからだ。そもそも、書き手が小説を書くのは衝動のため、すなわち自分のためなので、どうして読者のために抑制を働かせなければならないのだろうと、たびたび立ち止まって考えてしまうのである。

 

ある時は、お金をもらっているんだから当然、と言って書き手は自分を納得させるし、またある時は、お金はとってないけれど時間はもらっているんだから、と書き手は自分を奮い立たせる。でも、たびたび戻ってきてしまう。一体全体、どうしてなぜ、抑制なんていう、堅苦しいものを引き受けなければならないんだろう、と。

 

まあ、唯一絶対の解答なんて、見つかりっこない。一つ確かなのは、作者に衝動があり、読者を求める限り、抑制はいつまでも要求され続けるのだから、書き手は何らかの形で自分を納得させ、抑制とともに作品に向き合わなければらない、ということである。

 

そこで私は考えた。一体、どういう風に物事を考えたら、抑制と上手く付き合えるようになるのだろうか、と。

 

そんなある日、私の頭に、ある考えがよぎった。自分が読んできた本の作者たち、あの流行作家や、あの大文豪たちも、自分みたいに、衝動を抑制することについて、思い悩んだりしたのだろうか、と。

 

たぶん、そうに違いないと、私は思った。多くの作家は、衝動と抑制のバランスをとるのに、いつも苦労させられているに違いない、と。

 

そして、こうも思った。あの流行作家も、大文豪も、読者のために、自身の衝動を抑制してくれていたのか、と。

 

そこに思い至ると、私は、自分が小説を書く時に抑制を効かせるのも、当然だと思えるようになった。だって、あの憧れの売れっ子作家も、雲の上のような大文豪も、みんながみんな、私のような読者のために、抑制を効かせてくれたのだ。だったら、自分がものを書く時だって、そうしない道理がないではないか、と私は思った。

 

実際のところ、今の私には、顔も見えない読者のために、自身の衝動を抑制しなければ、という感覚は、正直言って薄い。

 

ただしその代わりに、私の胸には、私のような読者のために抑制を受け入れてくれたであろう、多くの作家たちへの敬意と、そんな作家たちに礼を尽くさなければ、という義務感がある。

 

「衝動」と「抑制」のバランス

私は、「衝動」の項では「自分を大切にしろ」と書いた一方で、「抑制」の項では「自分を抑えて読者のために尽くせ」と書いた。はっきり言って、これは矛盾している。

 

だが私は、人生がある意味でそうであるように、小説を書くこともまた、矛盾を受け入れていくことであると考えている。

 

大事なのは「二つあるうちのどちらか正しい方」ではなく「二つの異なる要素のバランス」なのではないか。

 

「衝動」と「抑制」は、小説を書く上でどちらも欠かせない一方、お互いに矛盾した概念だ。しかし、矛盾する二つの要素を併せ呑むような、包容力のある作品こそ、真に傑作たり得るのではないか。

 

そうなると、衝動と抑制のバランスを上手くとるには、どうすればいいのかという話になるが……これについては、私も今のところ、経験を積んで掴んでいく、という以外に良い方法が思いつかない。つまり「とにかく書け」ということなのだろう、と思っている。

 

私が最も強く言いたいのは、書き手は衝動を無理に抑えつける必要も、抑制を必要以上に毛嫌いする必要もないのではないか、ということだ。

 

大事なのは、それら二つの矛盾する要素と、同時に付き合い、乗りこなせるような、高い技量を身に付けることであると思う。