long_short_differenceというわけで、今回は長編と短編の違いを考えていきたい。

 

前回の予告でも触れたとおり、長編と短編は、もちろん長さが違う。

 

しかし、その長さの違いは、小説の内容や、書き手の心構えに大きな違いをもたらす……ということが、ここ数年、長編と短編を書き分けてきて分かってきたような気がしている。今回は、そのあたりについて掘り下げていきたい。

 

 

長い言葉と短い言葉、アナログとデジタル

このシリーズにはよくあることだが、まずは遠回りにアプローチしようということで、言葉や文章というものの性質について、特にその長短について考えてみたい。

 

たとえば「冷たい」という言葉がある。しかし、これだけで何がわかるだろう。冷たいのはもちろんわかるが、たとえばどれぐらい冷たいのかはさっぱり分からない。極端な話、液体窒素と比べれば、氷水だって「熱い」だろうから「冷たい」という言葉だけでは大したことは分からない。

 

しかし、ここでたとえば「氷のように」を付け加えて「氷のように冷たい」とすれば、大体どのぐらい冷たいのか見当がつくようになる。

 

言葉というのは、全般に渡ってこのような性質がある。言葉を長くすればするほど、情報の量が増え、精度が増し、より正確に情報を伝えることが可能になる。

 

私が尊敬する作家の神林長平先生は、著書「戦闘妖精・雪風」でこう書いている。「言葉というのは、デジタルだ」と。

 

デジタルというのは、大雑把に言えば、0と1の二つの値で物事を表現する形式である。だが、現実には、0と1の間には「0.3」とか「0.05」のような数がたくさん(無限に)ある。こうした0と1の間にある無限の数にも目を向けるような考え方を、デジタルとは対照的にアナログと呼ぶ。しかし、デジタルではアナログが考えるような中途半端な数は切り捨てられる。

 

切り捨てると言うのは聞こえが悪いが、これにはそれなりの利点がある。デジタルでは細かな違いを気にしないことにより、事象を単純化でき、情報の受け手に重要な情報だけを絞って伝えることができる。特にコンピューターはこういう単純化された情報の処理が得意で、一時期、コンピューターとその周辺技術のことがデジタルデジタルと呼ばれたのは、このためと思われる。

 

話を戻そう。もちろん、デジタルだからといって、0か1かという二つに一つだけで物事を表現するわけではない。実際には、デジタルでも0か1かで情報量が足りなくなると、桁数を増やすことで対応する。0101とか0110100011011101とかいった具合だ。

 

同じことが、言葉にも言える。「熱い」とか「冷たい」という言葉は「熱い」と「冷たい」の間にある無限の状態を切り捨てている。これでは物事を正確に表現することができない。しかしここに「炎のように熱い」とか「氷のように冷たい」などといった具合に、言葉を付け加えて情報量を増やすことで、現実をより正確に表現できる。

 

こうしたことから、デジタルというのは、情報量を増やせば増やすほど、アナログに近づいていくものなのではないかと、私は思う。

 

同じように、言葉というのも、長く連ねれば連ねるほど、現実を正確に表現できるようになるのではないか。

 

また、短い言葉にも、それなりの利点があるように思う。情報量の少なさゆえに、短い言葉は処理しやすく、重要な情報を的を絞って伝えることができるのではないか。ただし、情報量の少ない短い言葉では、現実の一面を切り取ることはできても、現実全体を正確に表現するのは難しいだろう。

 

以上を踏まえて、次節以降では、長編と短編について述べてみたい。

 

長編は円を描くもの

唐突だが、私は小学校の教科書の内容を全て覚えている人などいないと思う。受験勉強を頑張った人は「そんなはずはない」と笑うかもしれない。しかし、小学校の教科書には、高校や大学の入試では絶対に出題されない内容が少なからず含まれており、受験勉強を頑張った人ほど、そうした入試では出ない内容が頭からすっぽり抜け落ちていたりする。

 

なので、私が、算数の教科書に書かれていた「正N角形のNの値が増えれば増えるほど、図形は円に近づいていく」という話を覚えているのは、単なる偶然だ(数学に詳しい人なら自明のことだったり、数式的に証明できたりするのだろうが)。

 

regular_polygonsさて、この話だが、どういうことかというと、正三角形より正四角形の方が円に近く、正四角形より正六角形の方が円に近く、正六角形よりも正一八角形の方が円に近いという話である。

 

これだけの話だが、これは長編小説を書くにあたって非常に示唆に富んだ逸話だと私は思う。

 

先に述べた通り、言葉を長くすること=長編を書くことの利点は、情報量を増やし、たとえそのために情報の処理が難しくなったとしても、現実を正確に表現できるようになることである。

 

しかし、だからといっていたずらに情報量を増やせばいいというものではない。情報の中にノイズが入り込めば、表現すべき現実はかえって遠ざかる。

 

この点、正N角形が円に近づいていくという話は大変に興味深い。

 

正N角形を長編小説に置き換えると、Nを増やすことは情報量を増やすことに相当する。しかし、それだけではいけない。円に近い図形を描くためには、それが単なるN角形ではダメで、正N角形でなくてはならない。だから描き手は、正しい長さ、正しい角度で線を引かなくてはならない。

 

同じように、長編小説でも、一般に文章や構成の美しさが求められる。

 

また、円というのは、完全な形をしている。「丸く収まる」とか「円満」という言葉があるように、円は幸福な状態を表す特別な図形なのだ。この点もまた、長編小説の到達点に似ていると言えなくもないように思える。

 

以上のことから、私は、やや感傷的ながら「長編小説を書く」ことは「限りなく美しい円に近い、正N角形を描く」ことに似ているのではないか、と思う。

 

短編は切れ味を競うもの

長編に対して、短編はどうだろうか。短編のような短い文章では、現実の有り様をそのまま描くのは難しい。

 

そこで、短編に適した内容は「現実の一面を切り取る」ことになると思う。短編ゆえの情報量の少なさは、現実をありのままに描くには向いていない。したがって、事象を単純化して読者に提示することになる。

 

こうしたことから、短編を書くにあたっては「現実のどのような一面を、どのように切り取るか」が重要になる。「いいところに目をつけたな」とか「こういう考え方もあったのか」と読者に思ってもらうことが、差し当たっての目標となる……と、ここまでいくと我ながら短編の可能性を限定しすぎなので、話半分に聞いてもらいたいが、とりあえず私はそう思う。

 

よって、私は短編を書くことは「居合切り」のようなものではないかと考えている。バッと刀を抜いてズバズバッと切る。その切れ味、切れた「現実」の切断面の美しさを競う、そんなものではないかと。

 

次回予告

今回の記事は「個人研究」の要素が強すぎたかな、というのが反省点だろうか。まあこのシリーズは全編にわたってそうなのだが今回は特にそうというか。

 

さて、次回は「キャラクターには三類型ある」という話をしようと思う。今までよりもう少し具体的な話になるかなあ、と思う。

 

では。