むかしむかしあるところに、一件のパン屋がありました。
そのパン屋にはそこそこお客が来ていて、特にお金に困るということはありませんでしたが、取り立てて人気のお店というわけでもない、ごく普通のパン屋でした。
そんな普通のパン屋に、ある日、中年の男性がやってきました。レジのバイト君が応対します。
バイト「いらっしゃいませ」
中年男「ちょっと君」
しかし、中年男はすんなりとパンを買おうとはしません。これはやっかいな客だな、と、バイト君は若いながらに勘づきました。
中年男「君、さっき、このパンにハエがとまっていたよ。取り替えてきてくれ」
バイト君は中年男がプレートの上に置いて差し出したウインナーロールを一瞥します。
バイト(いい歳してウインナーロールかよ……)
などと思いつつ、バイト君は考えました。パンにハエがとまっていたというのが本当かどうか、知りようもありません。しかし、お客さんを嘘つき呼ばわりするなど御法度です。本来なら取り替えるべきところでしたが、バイト君は若さがたたったのか、ついこんなことを言ってしまいました。
バイト「取り替えには時間がかかります……なんなら、タダで持って行ってくれてもいいですよ」
言ってからバイト君は、しまったと思いました。いくらタダとはいえ、お客さんにハエがとまったパンを渡すなんて。
しかし、バイト君の思いとは裏腹に、中年男は喜ぶような笑みを浮かべました。
中年男「そうか? ふむ。悪くない取引だ。今回は大目に見よう」
しかもやたらと偉そうです。
バイト君が唖然としている中、中年男はウインナーロールを手に、悠々と店を出て行きました。
バイト「……ということがあったんですよ」
パン屋「ふーむ。なるほど」
その日の夜、店じまいのあとで、バイト君はパン屋の店長に説明をしました。
パン屋「話は分かった。そういうことを何度もやられたらまずい。今度は私が対応しよう」
バイト「はい」
そして数日後、やはりあの中年男が店にやってきて、またしても、ウインナーロールにハエがとまったと難癖をつけてきました。
今度は店長が対応しました。
パン屋「お客さん、うちはハエを追い払う超音波機器を設置するとか、虫対策にはいろいろ気を遣っているんですよ。本当に虫がいたんですか?」
中年男「な、なんだとこの野郎……!!!」
その日、中年男は怒って帰るかと思うと、持っていたスマホで店に並んでいたウインナーロールの写真を撮って「今に見てろよ……」いやらしい笑みを浮かべると、去って行きました。
あくる日、中年男は一枚の写真を手に怒鳴り込んできました。
中年男「これを見ろ!」
パン屋「こ、これは……」
その写真には、ウインナーロールと、その上に描き込まれた黒い点が映っていました。
バイト(どう見ても合成写真……というより、まるで子供のいたずらみたいですね。Wind○wsのペイントソフトで作ったのかなあ)
パン屋(怒るというより呆れるなあ……)
などとひそひそ話をしながら、パン屋は、しかしこれ以上しつこくされても面倒だなあ、と思いました。
パン屋(何かいい策はないものか……)
はっと、パン屋はそこでひらめきました。
パン屋「お客さん」
中年男「なんだ?」
パン屋「お客さんの写真を撮らせてください」
中年男「な、なんのために?」
パン屋「いや……うちの店の欠点を指摘してくれたということで、記念写真のようなものですよ」
中年男は警戒するような素振りをみせたので、パン屋は言いました。
パン屋「お礼に、ウインナーロールを三十個あげますから」
中年男「ほ、本当か!?」
パン屋「ええ、写真を撮らせてくれればね」
こうして、まんまとタダでウインナーロールにありついた中年男は、一日一個ずつ、一ヶ月かけて、ウインナーロールをたっぷり味わって食べると、またパン屋にたかりに出かけました。
すると、いつもと様子が違いました。いつもそこそこしかお客が入っていないパン屋が、押し合いへし合い、大行列の大混雑なのです。
中年男「こ、こいつはどういうことだ」
この中でたかるのは無理だと素直に諦めた中年男が、普通にウインナーロールをレジに差し出しながら言いました。
バイト「あれですよ」
すると、バイト君は得意げに、レジ横の壁に額に入れて飾られた、一枚の新聞記事を指さしました。
それを見た中年男は目を丸くしました。そこには、この前来た時に撮った写真が、白黒で写っていたからです。一枚は、あの合成写真をつきつける中年男の写真。もう一枚はその合成写真のアップです。
しかし、本当に中年男を驚かせたのは、その記事の文面でした。そこでは、パン屋の店長がインタビューに答えていました。
パン屋「この中年男性は、おそらくお金がなかったのでしょう。しかし、それでもうちの店のパンが食べたかった。そこで仕方なく、あんなことをしたに違いありません。彼のしたことは間違っているかもしれません。しかし、私は彼の行動に深く胸を打たれました。こんなことをしてまで、私の作ったパンを食べたいと、強く思ってくれる人がいるなんて……私は感動のあまり、店にあったパンを全て彼にプレゼントしました」
よく見ると、記事の見出しは
「嘘をついてまで食べたいほどおいしいパン」
となっています。
バイト「この記事のおかげで、過去最高の売り上げでして。ああ、俺もう、ここに就職しちゃおうかな」
中年男が呆気にとられていると、パン屋の店長が厨房から出てきました。
パン屋「やあ、あなたでしたか。あなたのおかげで、新しいかまどを買えそうですよ。これでますますおいしいパンが焼けるようになる。そしたら、また来て下さいね……ただし、今度はお金を持って」
すると、いきなり、中年男は泣き崩れてしましいました。パン屋とバイト君は慌てます。
パン屋「ど、どうしたんですか」
中年男は、聞くも涙・語るも涙の話を涙ながらに語り始めました。
中年男「お、俺は勤めていた会社をクビになって、女房子供にも逃げられ……自分でも心がすさむのを止められないまま、毎日毎日、どんな思いで暮らしてきたことか……でも、そんな俺が、こんな形で、人の役に立てたなんて……よし! 決めました! 俺はこれから毎日、同じ事を繰り返そうと思います。まずは、隣の肉屋からだ! 肉屋さーん! このヒレ肉カビ生えてますよー!」
そう言って店を飛び出していく中年男を、パン屋とバイト君は、呆然と見送りました。
やがて中年男の姿が見えなくなると、パン屋とバイト君は顔を見合わせて、やれやれ、と肩をすくめたのでした。
めでたし、めでたし。