なんか、エール大学構内らしいです最初に「知と愛」を手に取った時の印象は「ヘッセにしては、分厚いな……」というものでした。


 


最近の私はある程度の厚みがある本は気合いを入れないと読めない体質になったといいますか、むしろ厚い本を読んでいると肩に力が入ってしまって疲れるというか、お前それでも作家かよって感じですが、とにかくそういうわけで、350ページほどある本書を後回しにしていたわけです。

 

で、読んでみた感想は……いやあ、さすがヘッセだなあ。


……いやもう、ザ・ヘルマン・ヘッセって感じの本なんで、これ以上言うことはないんですが、一応、このコーナーも読み物の体裁を取っている以上はもう少し解説をば。

 

あらすじ

学問に通暁した若き知性の人・ナルチスが教鞭をとる修道院(修道院! ヘッセですねえ)に、ゴルトムントという名の生徒が入ってきます。ゴルトムントはナルチスに憧れて、彼のような知性の人になろうと猛勉強に励みますが、ナルチスはすぐにこの愛すべき生徒は知性とは相容れない、感情や愛欲の人であることを見抜き、すったもんだの末、ゴルトムントはナルチスによって自分の進むべき道を悟り、修道院を出奔して旅に出ます。

 

その後のゴルトムントは、会う女の子を片っ端から口説いたり、ひどい不幸を経験したりと山あり谷ありの人生を歩むんですが、そのあたりのことは本書を直にお読みになった方がいいでしょう。ナルチスとゴルトムントの友情なども、ひょっこり現れたりとかするので、腐女子の皆さんも挑戦してみてはどうでしょうか。

 

私の印象に残っている場面は二つほどありまして、一つは、後半でゴルトムントが直面するペストの流行。

 

アシュドッドでのペストの流行有名な本「世界史」の著者も、近代初期の人口増加は医療や農業の進歩よりもペストに的確に対処できるようになったことが大きい、といったことまで言っておられるようで、裏を返せば昔の欧州人にとってペストほど恐ろしいものはなかったのですね……。


 

「日本には地震や津波があるが、欧州にはペストがあったのだなあ……」と言っても過言ではないぐらい、その描写は激しいものがありました。

 

薄幸のレーネ

で、もう一つ印象に残っているのは、レーネという女の子です。


私は「知と愛」を読むまでは、ヘッセ作品で最高の女の子は「ラテン語学校生」のティーネだと固く信じていたのですが、いやはや。なかなかどうしてこのレーネもいいですね。

 

レーネは、ペストで死につつある町で女中として奉公していた女の子です。ゴルトムントが通りを歩いていると、窓から顔を出した彼女が見えました。前々から「女の子を口説き落としたはいいが、一夜限りの関係ばかりで、誰も一緒に旅をしてくれる子がいないなあ」と不満に思っていたゴルトムントは、この死にゆこうとする町の女の子なら何もかも捨ててついてきてくれるかもしれないと思ったのでしょう。レーネをナンパします。

「(前略)じゃ、おいでよ。年とった人たちは死なせるがいい。僕たちは若くて元気なんだ。もうしばらくのあいだ楽しくやろう。おいで、トビ色の娘さん。僕はまじめなんだよ」。これで本当に落としてしまうんだから、イケメンというやつは……。


とはいえ、他の大多数のヘッセ作品と同様に、この恋にも幸せな結末は用意されていません……でも、ここだけ切り抜いても一本の短編として十分成立してしまうぐらい、とてもいいお話ですよ。

 

ザ・ヘルマン・ヘッセ

私が冒頭でこの作品を「ザ・ヘルマン・ヘッセ」と表現したのは、この作品がヘッセのオーソドックスな系統の作風に属する中でも珠玉の出来だからです。

 

考えてみれば、ヘッセは異色作の多い作家です。「デミアン」「荒野のおおかみ」のような誰が見ても異色と分かる作品はもちろん、ヘッセ最後の大作長編小説「ガラス玉演戯」は長大さ以外にも構成などの面で風変わりですし、日本で最も有名なヘッセ作品「車輪の下」ですら、日本文学に慣れた読者には違和感がないでしょうけれども、あそこまで悲観的な作風はヘッセ作品では実は珍しい部類に入ります。

 

では、翻ってオーソドックスなヘッセの作風とはなんでしょうか。
ヘッセは後期と前期で作風が大きく変わっているので、これは極めて難しい質問になります……しかし、仮に基準を出世作「郷愁」に置くとするなら、前期なら「青春は美し」「ラテン語学校生」「春の嵐」「クヌルプ」、「知と愛」と同じ後期なら「シッダールタ」などが挙げられるのではないでしょうか(このへんは相当主観が入った感想ですが)。

 

陰陽共通点は、登場人物が陽と陰、善と悪の狭間で揺れ動きつつも、最後には相反する二つの価値観の両方を受容することによってより高次の美しさを見いだし、救われるという、弁証法的展開です。



……などと書いてきましたが、よく考えたらこの弁証法的展開は異色作にも共通しています。じゃあ何が違うんだと聞かれたら……もう読んだ感じとしか答えられません(ごめんなさい)。強いて言うなら、オーソドックスな作風のヘッセ作品は往々にしてやや世俗的で陽の面が強く(大衆小説的かも)、異色作は浮き世離れしてて陰の要素が強く出ている(昔の西洋哲学者の影響?)といったところでしょうか。

 

「知と愛」は、そんな「陽と陰」のバランスが非常によく取れている作品であると思います。読んでいて不愉快になるほど陰鬱になることもなければ、甘っちょろい展開にしらけることもないでしょう。

 

ただ、個人的には、これからヘッセ作品を読むなら「陰」にやや傾いている「デミアン」が最初に読む作品としてはいいと思います。あれは、ヘッセという作家が他の作家とは一線を画していることを知る上で、これ以上ない作品であると思いますので。その次は好みに合わせて、大衆小説が好きなタイプの方は「陽」が強く出ている「郷愁」を、歯ごたえのある作品が読みたい方はお釈迦様をモチーフにした「シッダールタ」をおすすめします。日本で有名な「車輪の下」は、他のヘッセ作品をいろいろ読んで、ヘッセとはだいたいこんな作家だとわかった上で読むのがいいと思います。

 

じゃあ、「知と愛」はいつ読むべき作品なのでしょうか……? あまり自信のある解答は出せませんが、おそらく、上に挙げた最初の二冊を読んだ後なら、いつ読んでもいいと思います。この作品は読む順番にそうそう左右されない、調和の取れた良質な協奏曲だと思いますので。