パリの街並みヘンリー・ミラーなる作家の名前を耳にしたことがある人は、ほとんどいないんじゃないかと思われます。

 


 

実際、この「北回帰線」を読む前、私はヘンリー・ミラーの名前すら知らず、ただ「妻に働かせておきながら自分は決して働こうとせず、貧乏生活に甘んじていた作家がいた」という噂を耳にしたことがあるだけでした。


「北回帰線」というその作家の代表作のタイトルは覚えていたので、それで検索してヘンリー・ミラーを探し当てた次第です。

そんなヘンリー・ミラーが自身のパリ放浪の経験を、自伝的小説に仕立て上げたのがこの「北回帰線」です。

 

華の都? ハッ。 って感じ。

パリ放浪を自伝的に、というあらすじを知った段階では、私は作品の内容を想像することが一切できませんでした。華の都パリでは美しい歴史的建築物が建ち並び、お洒落な格好をしたパリジャン・パリジェンヌが街を闊歩している……などという幻想を抱いていたわけでもないのですが、それにしたってパリ放浪というのは「?」でした。

 

しかし、読んでみてすぐに納得。なるほど、パリってこんな感じなのかと(それもまた偏見だと思いますが……)。

 

この「北回帰線」で描かれるパリは、簡単に言い表すと「セックス汚物セックスセックス汚物」です。セックスというのも華やかなイメージは全くなく、たいていは安っぽい売春婦が相手のものです。


もっと言うと、主人公のパリ滞在はひどいものです。アメリカにいる妻からの仕送りを時々(本当に時々)受け取りつつ、市井で知り合った友達の家から家へと渡り歩く居候の日々。ほんの少しだけ、その友人の口利きがあって働き始めますが、すぐにリストラ。まあ「人員を削減すれば、この上役の車代と別荘の維持費分を節約できるというわけだ」みたいなことを書いていたりするので、ろくな従業員じゃなかったのでしょう。また、ボランティア(飯・部屋目当て)で学生に英語の授業をした際には、象がいかにして交尾するかを語って大好評を博したとか何とか。

 

黄昏のパリそんな風に破天荒なパリ放浪記ですが、決してコメディではありません。間違いなくこの作品は文学です。

 

そもそも我々は、何を以てその作品を文学であるとするのでしょうか……芸術性でしょうか? もしあなたがそう考えるなら、私はあなたに是非この作品を読んでもらいたいと思います。おそらく、あなたの芸術観が試されると思われますので。


 

 

プロット? ハッ。 って感じ。

というのも、この「北回帰線」は読む人の多くに「芸術である」と思わせるに足るものを持っているにも関わらず、明らかに「小説の体をなしていない」からです。より正確を期して言うなら、この作品には明らかにプロットがないのです。

 

プロットとは、小説を書く上での設計図みたいなものですが、ここでは話の流れの一貫性ぐらいの意味にとるべきでしょう。つまり、北回帰線には一貫性がない。このことは本書を読めばすぐに分かります。とりとめもない場面場面が展開され、めまぐるしく入れ替わる。主人公を除く登場人物は、一回か二回出てきたきりで消えていってしまう。

 

そんなものを小説を呼べるのでしょうか? 私は、まあ確かに小説とは言えないかな、と思います。しかし、解説にも触れられているように、文学とは言えるかなとも思います。めまぐるしく変わっていく場面の一つ一つは、確かに文学しているのです。華々しいパリのイメージとは裏腹に、汚らしく、猥雑に描写される街並み。退廃的な、しかしどこか生命力に溢れた個性的な友人たち。思い出したように時々挿入される、主人公の人生哲学。プロットのない、場当たり的な言動と思考の繰り返しは、一面では生活というものをリアリティを持って描いていると言えるかもしれません。神も英雄も死んだ現代社会では、神話や英雄譚のようなプロットは存在しようがないのですから。

 

パリは眠らない本物の文学とは、芸術とは、プロットなど必要としていないのかもしれません。この本を読むと、そんな風に思えます。それが分かっただけでも、本書に出会えた価値があると思っています。


 

 

蛇足:ところで、この作品のタイトル「北回帰線」なのですが、タイトルは何を意味しているのですかね? いや、地理用語だというのは分かっているのですが、一体何を意図してこの地理用語をタイトルにしたのかと。原題もまんま「Tropic of Cancer」ですし。