ガラス玉

どうも、こんにちは。

世の中はいつも騒がしいですね。事件、事故、戦争、政変、エトセトラ……皆さんもそうだと思いますが、我々凡人は移り変わりの激しい世間にどうにか食いついていき、日々を生きるのに精一杯です。

 

ドイツの文学者、ヘルマン・ヘッセが「ガラス玉演戯」を著したのは、第二次世界大戦の直前から戦中にかけて、世相の移り変わりがどうこうというレベルではなく、世界中が大戦争で大騒ぎだった頃のことでした。

 

ガラス玉演戯のあらすじ

ヘッセはそんな世間に嫌気が差したのか、「ガラス玉演戯」の舞台として、選ばれた子供たちが英才教育を受け、学者となり、国から生活を保障されつつ、一生を自分の好きな研究に捧げることができる、そんな空間を設定しました。その空間の名はカスターリエン。俗世から完全に切り離された、英才たちの桃源郷です。

 

物語は、ガラス玉演戯名人であるヨーゼフ・クネヒトの伝記として進行します。表題にもなっているガラス玉演戯とは、古代から現代に至るまでの芸術や科学のテーマをガラス玉の意匠として一つ一つ封じ込め、それらを一定のルールの下で並べていくことによって、ガラス玉に刻まれたテーマ同士の関係を再発見し、新たな発見・感動を生み出すという、架空の芸術的演戯です。

 

カスターリエンには一芸に秀でた名人が各分野毎にいます(音楽名人、数学名人などです)が、ガラス玉演戯がカスターリエン独特のものということもあって、ガラス玉演戯名人は特別な地位を占めているようです。

 

修道院。ヘッセ作品のキーワードでもある。物語の前半六割ほどは、主人公のヨーゼフ・クネヒトが才能を見いだされ、数々の試練を乗り越え、新境地を見いだし、ついには若くして演戯名人の座を射止めるまでが語られます。後半は、クネヒトの演戯名人としての働きぶり、そして最後にクネヒトが下した驚きの決断が描かれます。

 

私は同じくヘッセの「デミアン」を読んで一発でファンになりました。自分はこういう小説が書きたいんだ、とさえ思いました(思い上がりも甚だしいですが)。そこで、ヘッセのノーベル文学賞受賞作である本作「ガラス玉演戯」を読んでみた次第です。

 

ガラス玉演戯のここがすごい

「デミアン」にしろ「ガラス玉演戯」にしろ、あるいは、聞き及ぶに、他のヘッセの後期作品にしろ、ヘッセが繰り返し説くのは「自分に帰れ」ということです。世間に振り回されるな、流行や欲望に流されるな、ひたすら自分に帰れ、と。

 

危機に見舞われるたび、出会いや「目覚め」によってそれを乗り越え、クネヒトは人間として成長していきます。それは、一昔前、「個性」や「自分らしさ」を叫びつつ、結局は大量消費に荷担したに過ぎなかった一種の社会現象とは違い、説得力にあふれるものです。

 

たとえば、少年期のクネヒトが多忙と疲労に悩んでいた時、クネヒトは瞑想の達人を訪ね、自分の生活のどこが悪いか聞きます。瞑想の達人はしばらくクネヒトの生活パターンを聞いた後「まだどこが悪いか分からないのかね」と言いました。クネヒトはその時、自分が忙しさにかまけて瞑想を怠っていたことに気づくのです。

 

問題の解決策が「瞑想を怠らぬこと」とは! 私はこのエピソード一発でこの本のファンになりました。考えても見てください。忙し過ぎて困っている人に向かって「努力が足りない」とか「もっと働け」とか言う人ばかりの現代社会にあって「ちゃんと瞑想してるか?」です。感動的ではありませんか(あまり理解を得られそうにありませんが……)。

 

作注に出てくる中国建築とはこんな感じかちょっと本題からそれますが、このように、クネヒトの壁の乗り越え方は驚きの連続です。中国人同様の生活をしている超中国マニアの元に弟子入りしたり、出張先の教会で仲良くなった勉強熱心の神父さんと一緒に歴史を学んだことが、後々の伏線になっていたり。

 

私はこの本のそういうところが好きです。壁の乗り越え方が「新しい必殺技」「新しいロボ」だったりする作品は、まあそれはそれでいいのですが、ヘッセも面白いじゃありませんか。

 

と、そうして壁を乗り越え続け、出世街道を驀進したクネヒトは、ついにガラス玉演戯名人となります。しかし、順調に職務をこなしていたかに見えた彼が、最後に下した決断は……この後は、ご自身で確かめるのがいいでしょう。

 

クネヒトの最期について

最後に、この本のラストについて、できる限りネタバレを避けつつ語りたいと思います。とはいえ、ネタバレが嫌な方は読まないようにお願いします。

 

ラストでは、クネヒトの死が描かれます。それは、英雄的でも何でもない、取るに足らない、悲劇的ですらない、偉人伝記に載せるのはためらわれるような、つまらない死に方でした。このラストを読んだ瞬間、私は、おそらく他の大多数の読者と同じく「ええっ!?」と驚きました。次に「なんでヘッセはこんな死に様を書いたんだろう」と不思議に思いました。

 

ここから先は、私の憶測を書きますので、どうか皆さんは皆さんなりに理由を考えてみてください。

 

第二次世界大戦この本が書かれた時代、世界は戦争のただ中にありました。多くの若者が、好むと好まざるとに関わらず、祖国のために雄々しく戦い、華々しく死ぬことを、自分の運命として覚悟し、受け入れていたことでしょう。実際に、第二次世界大戦では、Wikipediaによると、軍人二千万人以上と、それ以上の数の民間人が亡くなっています。

(画像はWikipedia「第二次世界大戦」より。2013/01/03閲覧)

 

 

作者のヘッセは、戦争に反対でした。祖国ドイツを出て、スイスで活動をしていました。そんなヘッセは、クネヒトの死を書くに当たって、世界中で現に進行中の「死」について、思いを馳せたに違いありません。

 

クネヒトの死のそもそもの原因は、職務(というより、自分に課せられたと確信していた使命)に忠実だったことです。そこにはもちろん、暴力は含まれていません。

 

私が思うに、ヘッセはヘッセなりの「戦死」を描きたかったのではないでしょうか。この惨めな死は、世界を思う英雄の、立派な戦死だ、戦争で戦死することに勝るとも劣らない死に様だ、と、訴えたかったのではないでしょうか。だから、あのようなラストを用意したのではないでしょうか。

 

以上、稚拙なネタバレと共に、今日は筆を置きたいと思います。