最近、道徳の授業の是非を巡って論争になることが多いですが、そういう論争を聞くたびに、私が思い出すことがあります。


それは、小学校の時に受けた、とある道徳の授業です。


その授業で私が学んだのは「子供が正しいとは限らない」ということでした。




どう見てもそれはいじめの話ではなかった

授業の内容は、道徳の教科書に載っている「道徳的な短編小説のようなもの」のうちの一つを先生が指定し、児童がそれを読んで感想を書くというものでした。


その日、教師が指定した物語の内容はこんな感じでした


小学生の女の子が、学校でいじめを受けて「死にたい」と思う。

しかし、そんな女の子に対し、母親は女の子が生まれた時のことを話して「死なないで」と伝える。

女の子はそれを聞いて元気を取り戻し、次の日も学校に向かう。


物語そのものはありきたりなものでしたが、ここで問題になったのが、各パートの分量。

この物語では、分量のうち9割ほどが「母親が女の子に「死なないで」と伝える場面」に割かれていて、いじめについての記述は1割もなかったのです。

当然、これはいじめの話ではなく「いじめを受けたからといって、大切な命を捨ててはいけない」という話だと考えるべきでしょう。


ところが、次の時間、生徒の感想文に目を通した教師は烈火のごとく激怒しました。

なんと、児童の大半が感想文に「いじめはよくないんだな、と思いました」と書いてきたというのです。

何を言っているんだ、お前らは本当にちゃんと文章を読んだのかと先生は怒り、私もそれを見て「みんなバカだなあ……」呆れました。


ちなみに私は「いじめを受けたからと言って、死んではいけないんだなと思いました」と書いていました。

これは別に、教師の期待した答えを書いたとかいうことではありません。


確かに、私が書いた答えは、教師が期待した答えと一致するものだったでしょう。

しかし、だからといって、私が教師の期待に応える「ために」それを書いたとは限らないし、実際、そうではありませんでした(この違いがわからない人がいるという大問題もありますが、今回は置いておきます)。


私はただ、物語の著者が発信したメッセージを受け取り、それに対して心の底から共感したから、感想文に「心の底から共感しました」という趣旨のことを書いたのです。


相手が発したメッセージをねじ曲げる自由なんてない

昨今の道徳の授業に対する論争を見ていると、一定数の人が「子供には与えられた情報を自由に解釈する権利がある」と考えているように見えます。


しかし実際には、読解能力やコミュニケーション能力が未発達な子供が多くいるのが現実でしょう。


そんな子供に「与えられた情報を自由に解釈する権利」があると考えるのは、果たして本当に教育と言えるのでしょうか。


いえ、正確に言うと、道徳の授業に関する論争をしている人の中に「自由」の意味をはき違えている人がいないでしょうか。


今回の例で言うと、物語を読んだ児童が「いじめられたら死にたいと思うのは当然じゃないか」と主張する権利は、まあ百歩譲ってあるかもしれません。


しかし子供が「この物語の著者のメッセージは『いじめはよくない』です」と主張する自由は、存在しないのではないでしょうか。


解釈する自由とは、あくまで、書いてあることのメッセージをそれなりに正しく(社会的・客観的に多くの人が「こういう文章ならこう解釈するのが普通だろう」と受け入れられる水準で)受け止めた上で、それに対し賛成・反対を表明する自由のことではないでしょうか。


そのあたりのことを一度深く考えておかないと、道徳の授業の妥当性に関する議論が、おかしな方向へ行ってしまうと思います。


「○○」は無条件で正しい、という考え方しかできない日本の教師(そして日本人)

実際、子供が言ったこと・やったことを無条件で追認するような教師・授業の在り方が、ここ最近広がってきているというような話を聞きます。


しかし、社会における「自由と、他者の尊重(そのためのコミュニケーション)のバランス」をいかに取っていくかを考えないと、結果として、社会に適応できない大人が生まれてきてしまうのではないでしょうか。


もっとも、現在の日本の教師の能力からして、対立する二項のどちらかが正しいという考え方しか知らないために「自由」を無条件に認める考え方しかできない……言い換えれば、自由について、本当に深く考えたことのない無能な教師が多いように思います。


だから、そういう「よくある間違い」にハマらない教育を受けられるのは、一握りの恵まれた子供だけなのでしょう。


そうして、自由について深く考えたことのない、考えることもできない日本人が増えていくのかもしれません……。


昔、つまり自由を抑圧していた時代はそれで良かったのでしょうが、これからはそれではいけないはずです。


いまは、自由な発想を持ちつつ、異なる他者と協調することによって新しいビジネスを作り出し、経済を豊かにしていこう、という時代です。


しかし、そんな時代にあって、実際に教育現場で養成されているのは「自由というよりはわがままで、誰とも協調できない役立たず」ではないのか……


とても心配です。





※なお「自由というよりはわがままで、誰とも協調できない役立たず」とはお前のことではないか、というツッコミが飛んできそうですが……本当にスミマセン(でも読解力には自信あるよ!)


 
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