さて、新年明けまして一発目ということで、今回はちょっと大きな話といいますか、「正義」について書いてみたいと思います。


より詳しく言うと「相対的正義の失敗について」です。


「自分の正義も相手の正義も、同じように正しい」と認め合う「正義の相対化」がここしばらくの流行でしたが、その試みはもう失敗したんじゃないかというのが、この記事の論旨になります。


なお、今回は堅い話題ということで「である」調でいってみたいと思います。



正義の相対化とは?

ではまず、ここで言う「正義の相対化」とは何か、ということを確認しておくところから始めたい。


正義の相対化の文脈においては「従来の伝統的な正義は『絶対的』なものである」という前提がまずあった。


ある人は自分の正義を絶対的なものとして心の中に堅持し、それを一歩も譲らない、譲ることは不正義であるとその人は考えるから……そうした人間が、ここではモデルとして考えられていた。


そして、そうした絶対的な正義を持つ二人の人間が対峙すると、お互いに一歩も譲る余地がないので、激しい戦いが起こると考えられた。


このように考える論者は「正義の絶対性こそが、破滅的な戦争の原因である」と結論づけた。


こうした論者のことを、以下「相対主義者」と呼ぶことにする(相対主義にはもともと色々な意味があるが、ここでいう相対主義とは正義相対主義のことを指す)。


こうした相対主義者は「自分の正義が正しいように、相手の正義も同じぐらい正しい」と認め合うことによって、相互理解と平和が促進されると考えた。正義の絶対性を放棄し、相対化することによって、お互いに譲り合う余地が生まれるという発想だ。


この考えは、近年の社会に広く受け入れられてきたように私には感じられる、実際、私もかなり最近までこの相対主義を支持していた。


しかし、私は最近になって「相対主義の失敗」についてよく考えるようになってきた。これを詳述するのが、この記事の主題である。


相対主義の失敗 ~一方的な殺戮と搾取~

相対主義に対し、昔からよくあった批判が、


「全ての正義が相対化されてしまうのだとしたら『殺すな』という命題も相対化されてしまうのではないか?(人によっては、殺すことが正しかったりすることになってしまうのではないか?)」


というものだった。


これに対し「その通りです」と答える人もまあ昔からいたのだが、そういう人は嫌われ無視されるのが常だったので、ここでも無視することにする。


実際には、多くの相対主義者の反論はこうだった。


「確かに理屈ではその通りだが、現実には、他人を殺す人間は、自らも他人に殺される危険を負うことになる。これが抑止力となって、社会秩序は保たれる」


なんともニヒリスティック(虚無主義的)な見解ではあるが、一応、筋は通っている……ように見えた。


しかし、現実はそうではない、ということが、ここ十五年ほどで明らかになってきた、というのが私の意見である。


確かに、先進国の国境の内側では「殺す人は殺される」の命題が保たれており、秩序は維持されているだろう。


しかし、その外側ではどうか?


具体的にここで考えて欲しいのは、アメリカ合衆国による対テロ戦争である。


装備の面でも組織力の面でも優れているアメリカの軍隊は、その敵に対して、少なくとも個々の戦闘においては非常に有利に戦いを進めている。アメリカ側にも犠牲が生じてはいるが、そんなもの、アメリカと戦っている側の犠牲者数とは比べものにならない。もっと言えば、アメリカの民間人の死者は、9.11同時多発テロ以降、ほぼ出ていないと言っていい。


ドローン攻撃の技術がテロとの戦いにおいて確立されたこともあり、今後も「強い側が弱い側を一方的に殺戮する」ような戦闘の形態は続いていくだろう。


さて、話を本題に戻すと、ここにおいて、私は相対主義の破綻の端緒を見る。


つまり、


「もし、強い側が弱い側を一方的に殺戮することが、現実的に可能であるとしたら、抑止力の論理は成り立たない。そうした状況の下では、相対主義は強者の殺戮に正当性を与えるだけのものでしかないのではないか?」


言い換えると「相対主義は、強者にとって、あまりにも都合のいい話なのではないか?」ということだ。


すなわち、正義が絶対的なものであった時代は、ある国の軍事行動は、その絶対的な正義に沿っているか否かで判断された。


しかし、正義を相対化してしまうと、もはや、ある国の軍事行動を道徳的な観点から判断することは、事実上不可能になる。「相手の正義を自分のそれと等価なものとして認める」ことが相対主義の根幹なので、相手が「これは身を守るための自衛戦争だ」と言い張るなら、相対主義者はそれを追認せざるを得ないのだ。


アメリカによる対テロ戦争は、もしかしたら自衛戦争かもしれない。しかし、ある国が次に起こす戦争が、そうとは限らない。その時、相対主義者はどうするのだろう? (具体的にはロシアの例などを考えてもらいたい)


また、相対的正義の失敗を示す出来事が、経済の世界でも起きていないだろうか?


ある経営者が従業員を不当に搾取している時、相対主義者は「経営者には経営者の正義がある」とでも言うのだろうか? あるいは、労働基準法を持ち出すのだろうか?


私に言わせれば、近年、不当に搾取されている従業員が怒りと共に立ち上がる例が増えているのは「従業員には従業員の正義がある」からでも「労働基準法に違反している」からでもない(労働基準法は目的ではなく手段であるはずだ)。


それはやはり、従業員の心の中に「経営者が自分たち従業員を不当に搾取するのは間違っている」という「絶対的正義」があるからだと思うのだが、いかがだろうか?


相対主義の問題点

こうして見てくると、相対主義は、元から問題を抱えていたのだということがわかる。


それは、相対主義には「相手の正義を無条件で承認する代わりに、自分の正義を無条件で承認するよう相手に要求する」という側面があったということである。


これでは一体、利己主義と何が違うというのか?


近年、ヘイトスピーチが社会に跋扈するようになった背景にも、この相対主義の広がりがあったのではないか、と私は疑っている。「差別する自分たちだって尊重されるべきだ」という理屈だ。


もともと、相対主義は、お互いの正義を認め合うことにより、相互理解が促進されるという発想を出発点にしていたはずだった。


しかし、現実に相対主義を採用した結果は、惨憺たるものだったのではないか?


相対主義を採用した結果、実際に起きたことは「全ての正義を認め合うこと」ではなく「全ての正義が、社会の表舞台から排除されること」だった。相対主義に染まった人々は、他者の行動の是非を判断する時に、その行動が「正しいか否か」という基準で考えることをやめてしまったのである。


そうした「正義の空白」を突いて勢いを広げたのが「力」だった。いまや強者は、軍事力の優位や、社会的地位の優位を、最大限に振りかざすようになった。相対主義は、結果として、そうした強者の振る舞いにお墨付きを与えるものでしかなくなったのだ。


フィクションの世界などでも、登場人物が「正義なんてのは相対的なものさ」「正義なんて言葉は無意味だ」などと冷笑的に口にするのをよく耳にする。しかしそれは多くの場合、その登場人物が暴力で問題を解決することのエクスキューズでしかない(主人公が率先してそういうことを言ったりやったりする作品も見かける)。


確かに、現実に、これからの社会がそういう方向に進む可能性はあるだろう。強者が暴走しても、誰もそれを止められない。問題を解決する手段として暴力ばかりに頼ろうとする。そんな世の中になる可能性が。


しかし、大多数の人々=弱者は、それでは納得しないのではないか?


*まあ、最近では実際には自分が弱者なのに強者だと勘違いしている人も多いから手に負えないのだが、それはこの記事の趣旨を逸脱するのでひとまず置いておく


相対主義は失敗した。なら、次はどうするか?

もちろん私は、人々は絶対的正義を掲げ合って殺し合うべきだなどと主張するつもりはない。


相対主義には、自己の視野の狭さや、相手の視点に立つことの重要性を気づかせてくれるという長所があったことも認める。


ただ、自己の正義の絶対性を放棄することは、相手の正義の絶対性を放棄するよう要求することになる。そんなことで、本当に相互理解と平和が促進されるのだろうか?


相対主義者はかつて、異なる正義を掲げる両者が、テーブルについて話し合うには、まずは両者が自らの正義の絶対性を放棄する必要がある、と考えた。


しかし、いまの私は、それはちょっと難しく考えすぎだったんじゃないかと思う。


話し合うために、まず自己の正義の絶対性を放棄する必要などない。


たとえば、自他の正義を絶対的なもののまま「はいはい分かりました」などと適当にあしらって、核心を脇に置いたまま、当たり障りのない話をするぐらいだったら、できるのではないか(それすらもできないのだとしたら、それは単にその人の人格の問題だと思う)。この話し合いにおいては、お互いに尊重し合う必要すらない。


もちろん、それではお互いの正義は絶対的なままであるから、簡単には話し合いは進まない。


しかし、それでもまずは話し合うことから始めるべきなのではないか、と私は思う。


そうして「まずは話をする」ことから始め、話をする中で、徐々に両者の心の中に変化が起きていくことを、私は期待したい。


いまの私は「殺すな」とか「盗むな」とかいう「絶対的な正義」は、やはり実在すると思う。いや、実在せしめねばならないと思う。少なくとも、正義のうちの一部には、絶対的なものが含まれると思う。


なぜなら、それを相対化して、希薄化させてしまったら、強者に都合の良い世界、弱者が虐げられる世界が出現するだけだと思うからだ。


結び

絶対的な正義が、昔のままではいられないのは事実だ。


しかし、絶対的正義の問題を打破しようとして、相対主義を採用する試みは、戦争、経済、ヘイトスピーチなどの問題を見るに、すでに破綻しているのではないか。


やはり私は、絶対的な正義を守ったまま、相手をいきなり殴りたいのをぐっとこらえて、まずは話をする、その過程で両者の考えに変化が起きることを期待する、というアプローチを推したいと思う。


正義の問題を解決するために、正義の実在を否定するわけにはいかない。


やはり、そこは地道に、話し合いの中で「絶対的な正義を『いままでよりも良いもの』にアップグレードしていく」のが本道なのではないかと、いまの私は思っている。