神奈川県相模原市の福祉施設で、元職員の男が障害者19人を刺殺するという事件が起きました。

 

男の動機は「障害者がいなくなった方が世の中のためだと思った」ということのようです。

 

これはつまり、ナチスドイツ的な「国家・民族の役に立てない人間は生きている意味がない」という立ちの悪い思想に基づく犯行であり、障害者に対するヘイトクライムであり、また広義のテロであるとも言えます。

 

で、先日の記事で「私はテロリストに同情的」と書いたので、やっぱり一言言っておかねばならんと思ったのですが、結論から言うと、私はこの手の人間には全く同情は抱かないのですね。

 

 

障害者排除の思想がなぜ間違っているか

今回の事件の背景にあったのは「障害者がいなくなった方が、福祉に使う金が浮いて、世の中のためになる」という危険な思想です。

 

確かに「障害者がいなくなれば、福祉に使う金が浮く」という部分は正しいでしょう。しかしそれでも、この思想は危険であり、我々のような善良な市民は、このような思想の持ち主に対し「お前は間違っている」と言い続け、戦い続けねばならないと思います。

 

このような思想がどうして危険なのかと言えば、色々な理由があって全てを説明するのは難しいのですが、一つ私が挙げるとしたら「一人でも殺し始めるときりがない」からでしょうか。

 

もうこの際だからはっきり言ってしまいますが、もし「知的障害者は全員安楽死させるべき」なのだとしたら、私は、私以外の全人類が安楽死させられるべきだと思っています。割と本気で。

 

でも、それって「危険」ですよね? さすがの私も「危険」だと思います。だからやめたほうがいいと思います。一歩間違えれば、殺されるのは私かもしれませんしね。

 

まあ今のは極端な例でしたが、でもこれは本当にそういう話です。

 

世界に一人、これはもうどうしても面倒見切れないという障害者がいたとしても、その人を安易に安楽死させてしまったら「あそこにいるあいつはどうなんだ? あいつも安楽死させるべきなんじゃないか?」という話になって、それが延々と続いていきます。

 

延々と続いていけば、そのうち、最初は障害が重い人に限って安楽死させていたのに、段々と障害が軽い人でも「安楽死させるべきじゃないか」という議論になっていくでしょう。そうして、安楽死の範囲は、際限なく広がっていくのです。そのうち「ちょっと頭の悪い健常者」が、間違って安楽死させられてしまうような事故も起こるかもしれません。危険ですね。

 

ただ私は、安楽死の全てを否定するわけではありません。たとえば、安楽死の中でも人生を精一杯生きた人が尊厳を保ったまま逝くための「尊厳死」などは、議論の余地があるでしょう。

 

しかし、安楽死の概念を理解できないような知的障害者や、適切な支援さえあれば健常者と同じように生きられる可能性がある身体障害者などを、安易に安楽死させようという発想は、著しく非人道的であり、また、そのような思想を認めれば、健常者にも火の粉が降りかかりかねず、そうなればかえって社会を危険にさらします。

 

そもそも健常者と障害者の区別だって、いつもはっきりしているわけではありません。「お前もう健常者でいいんじゃないの?」と言いたくなるような障害者もいますし、健常者の中にも特定の条件の下では障害者のような振る舞いをする人もいます。

 

そう考えると、公権力に障害者を安楽死させる権限を持たせることは、やはり危険です。権力側に都合の悪い人間が「お前は障害者だ」とレッテルを貼られ、安楽死を名目に処刑される可能性だってあります。

 

と、このように、障害者排除の思想は「お金が節約できる」というだけではとても埋め合わせられないような、現代社会にとって危険な要素を多くはらんでいます。

 

……本当は「そもそも障害があるから安楽死って野蛮だろ」ということも言いたいのですが「それよりもお金を節約する方が大事だ」と考えちゃうような人には、社会的な危険性を訴えた方が分かりやすかろうと思い、こういう書き方になりました。

 

テロを支持するための条件

「障害者がいなくなった方が、福祉に使う金が浮いて、世の中のためになる」という思想を持つ悪質な人間は、今回の事件の犯人に限らず、世の中に少なからず存在します。今回の犯人が唯一というわけではありません。

 

思想信条は自由だと言いますが、それは誰がどんな思想を持ったとしても誰も批判してはいけないという意味ではありません。思想を理由に物理的・社会的に制裁を加えることはまずいですが、間違った思想を持った人間を「それは間違っている」と批判することは自由です。

 

ましてや、その思想が「間違っている」を通り越して「危険」であれば、そのような思想を持つ人間を批判することは、善良な市民としての義務である、と言っても過言ではありません(だからまあ、いつもの私を批判してくださるのも自由です。私は批判されれば反論しますけど)。

 

一方で私は、時としてテロを支持するような発言をすることもあります。

 

しかし、私がテロを支持するのは、おおむね、以下の二つの条件を満たした時のみです。

 

1:そのテロ行為が、弱者による強者への抵抗(レジスタンス)であること(=強者による弱者の弾圧ではないこと)

2:そのテロ行為が、なにがしかの正当性が認められる思想を背景として行われていること

 

1は、弱者が強者に対抗する時はどうしても物理的暴力という形をとらねばならぬことが多くあること(強者が弱者に対抗する時は、物理的暴力という形をとる必然性がないことが多い)が理由です。

 

2は、まあそのままです。どこかしら正しいと思えるような部分のある思想が背景として存在しないと、単なる殺人で終わってしまうでしょう。

 

私としては、1と2の条件の両方を満たす殺人は、正当性が認められうると考えています。なぜなら、そのような殺人は、正当性のある思想を訴える上で、他に手段がなかったと考えられるからです。

 

しかし、今回の事件は1と2のどちらにも当てはまらないので、私が支持する対象にはなり得ません。

 

他人事ではない

話を戻しますが、今回の事件の犯人のような思想を持った人間は、決して稀ではありません。

 

私たち善良な市民は、そのような危険な思想から社会を守るために、戦う義務があります。

 

「狙われたのは知的障害者だから、健常者の自分には関係ない」と思ったら大間違いです。

 

今回の事件の根底にあるのは人権の否定であり、人権という概念は、私たちの社会を根底から支えるものです。今日、知的障害者の人権を否定している連中は、明日にはあなたの人権を否定し始めるかもしれません。

 

ですから、今回の事件は、そしてその背景にある思想は、私たちの社会全体に対する重大な挑戦なのです。

 

だから私たちは、もし「あの犯人の言っていることは正しい」と言う人間を見かけたら即座に「あなたは間違っている」と反論しなければなりません。

 

そういう「他人事ではない」という意識を持って、今回の事件を考えておいて欲しいと思います。

 

余談

これはまた別の話になるのですが、最後に一言。

 

私は最近、障害者が対象のものを含めた介護の仕事が「食いっぱぐれのない、有利な就職先」として宣伝されている空気があるように感じています。

 

しかし、うーん、私には介護の仕事って「誰にでもできる仕事」とは思えないんですよね。むしろ「選ばれたエリート」にしかできない仕事なんじゃないかと思えてしまうんですが。

 

一方で、介護の現場は忙しすぎて、来た人を片っ端から採用せざるを得ないのも実態なんでしょうし。

 

今回の事件では、そういう福祉のあり方みたいなものについても、合わせて考える必要があるのかもしれません。