安倍政権肝いりの、いわゆる「安全保障法制」が参議院で審議入りしました(画像は1960年の安保闘争の時のもの)。
今回は「国を守る」とはどういうことなのか、という観点を軸に、この安全保障法制、特に集団的自衛権の行使容認を批判していきたいと思います。
戦争に勝つだけでは「国を守った」ことにならない
自国を侵略しに来た外国の軍隊に対し、反撃して撃退することは、おおむね正しいことです。
まあ、大した根拠もないのに「あの国は我が国を侵略しようとしているからやられる前にやる!」といった理屈で事実上の侵略戦争をしかけた例も過去にはあるわけでして、そういう意味ではこの「侵略者を撃退する」という主張が本当に正しいかを見極める必要があるのは確かですが、基本的には「侵略者を撃退する」のは正しいことであり「国を守る」ことです。
しかしそもそも「国」とは何だったでしょうか。
「国」を守るために「戦争に負けない」ことは、確かに大事なことです。しかし実際には「国」は「戦争に負けない」こと以外の、多くの要素によって成り立っています。
たとえば、私たちの国「日本」は「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を憲法の三つの柱として掲げています。
この憲法が占領国の押しつけだという批判もあるようですが、だからといってこれらの価値観が現在の日本と相容れないものだということにはなりません。
むしろ日本人は、戦後七十年の歴史の過程で「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」といった価値観を受け入れたと言っていいでしょう。これらの価値観に反対する人、たとえば「天皇主権」「軍国主義」「基本的人権の軽視」を主張する人は、今や日本でもごく一部に過ぎません。
七十年という、決して短くない期間を経て、こうした国民的価値観が形成された以上、たとえその原点に「押しつけ憲法」があったとしても、時計の針を巻き戻していいことにはならないのです。それは日本という国を変えるということであり、ある意味では侵略と同じです。
その上で「国」とは何か、という話に戻ります。
先述した通り、日本国憲法の精神は、今や日本の国民的価値観の一部となりました。
では、たとえば「戦争に負けないこと」と「国民的価値観を捨てないこと」では、どちらが大事でしょうか。
国が滅びてしまっては元も子もないから、戦争に負けないことの方が大事、でしょうか。
私はそうは思いません。
たとえ戦争に勝ったとしても、国民的価値観を捨ててしまっては、それは日本が今までの日本でなくなるということです。それでは「国を守った」ことにはならない、と私は考えます。
極端な話、戦争に勝つ代わりに国民的価値観を捨てることと、戦争に負けて占領軍のやりたい放題に日本を作りかえられるのと、なにが違うのかと私は思います。
だから「たとえ国民的価値観を捨てたとしても、戦争にさえ勝てば、国は守れる」という発想は、私には不思議に思えます。
「戦争に負けないこと」と「国民的価値観を捨てないこと」のどちらが大事か、という問いは、問いかけ自体が理不尽なのです。
確かに、戦争に負けてしまっては国は守れませんから、戦争に備える必要はあります。
しかし、戦争に勝つために国民的価値観を捨ててしまっては、それこそ元も子もないのです。それでは本当の意味で国を守ったことにはならず、戦争に負けるのと大した違いがないのです。
たとえば、外国で侵略者と戦った自衛隊員が、日本に帰国したとしましょう。
その時、自衛隊員が見た日本が、国民の主権を否定し、平和主義を否定し、基本的人権を否定するような国に成り果てていたとしたら、自衛隊員は「私は何のために戦ったのだろう……」と肩を落とすことに、なりかねないのではないでしょうか。
ですから、何度も強調するように「戦争に負けないこと」と「国民的価値観を捨てないこと」は、両立する必要があります。
なぜならば、それこそが本当に「国を守る」ということだからです。
片方だけでは、本当の意味で「国を守る」ことにはならないからです。
その上で、現在の安倍政権の姿勢を見ていると、戦争に勝つことを重視するあまり、国民的価値観、それを代表する憲法を軽視しているように思えます。
だから、私は安倍政権の推進する安全保障法制には反対です。
一連の法制は、国を守るどころか、むしろ壊すものであると、私は考えます。
憲法は変えてもいいけれど、立憲制は変えてはならない
基本的に、憲法はきちんとした手続きを踏みさえすれば、変えてもいいものだと私は思います。現に、改正の手続きもまた、憲法に定められているわけですし。
ですから、安倍政権が憲法に定められた手続きを経て憲法を改正し、集団的自衛権の行使を可能にするなら、私もここまで反対しなかったかもしれません。
ですが「憲法を基にして政治を行う」という「立憲制」というシステムについては、決して変えてはならないものだと思います。
「立憲制」を変えるということは、選挙で当選した政治家が何をやってもいいという仕組みにするということです。
「それでいいじゃないか」という人も日本には多いですが、とんでもない話だと思います。私は直接会ったことも話したこともない人に、国の全権を預ける気にはなれません。「立憲制」というシステムの下で「憲法」によって政治家の権限に制限を加えることこそ、議会制民主主義に対する現実的な態度だと思います。
その上で、私が今回の安全保障法制を危惧しているのは、安倍政権が軽視しているのが「憲法」というよりも「立憲制」そのものなのではないか、と感じるからです。
「大事なのは国を守ることであり、憲法を守ることではない」という趣旨の発言が、安倍政権の高官の口からたびたび出てきます。
ですが、それなら、やるべきことは憲法の改正であるはずです。「立憲制」では、憲法を無視することは許されませんが、憲法を改正することは容認されています。
しかし実際には、安倍政権は憲法改正なしでの集団的自衛権の行使に突き進んでいます。
「大事なのは国を守ることであり、憲法を守ることではない」と発言する一方で、憲法の改正は行わない。
この二つの姿勢から、安倍政権は「憲法」だけでなく「立憲制」というシステム自体を軽視していることが読み取れます。
たとえ憲法が改正されなくても、そもそも憲法の土台である「立憲制」が揺らげば、憲法は形骸化します。
そうなれば、安全保障法制成立の影響は「集団的自衛権の行使容認」だけにとどまりません。
「立憲制」が揺らげば、選挙で選ばれた政治家が何をしてもいいという方向になっていきます。そうなれば、憲法の「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」も危機にさらされるかもしれません。
もちろん、すぐにそうなるというわけではないでしょう。
しかし、これまで盤石だった「立憲制」という基盤に、ひびが入ることは確かです。
安全保障法制の目的は、国を守ることだったはずです。
しかし、日本の国民的価値観を代表する憲法と、その土台となる「立憲制」に打撃を与える立法が、本当に国を守ることになるのでしょうか。
私にはそうは思えません。
だから、繰り返しになりますが、私は安全保障法制には反対です。
何度でも言いますが、これは国を守るどころか、国を壊す法律だからです。
日本の国体は変わった
これは完全に私見になるのですが、日本人の国体(ここでは「ある国の基礎的な政治の原則」という意味)に対する意識は、戦前の天皇制の下での天皇主権から、戦後徐々に時間をかけて、立憲制の下での国民主権に切り替わっていったのだと思います。
「国体=立憲制」という人からすれば、今回の安全保障法制は全く受け入れられない法律のはずです。なぜならこの法律は、日本の国体を揺るがしかねない危険なものなのですから。
そうした人にとって「この法律は日本を守るのではなく壊す」という私の主張は、受け入れやすいものだと思います。
しかし、日本の国体のイメージとして天皇制を考える人も、まだまだ一定数いるのではないでしょうか。
「国体=天皇制」という人にとっては、今回の法律にはそれほど違和感はないのではないかと思います。こうした人にとっては、立憲制より上に天皇制がありますから、日本に対する天皇の統治権の独立を守れさえすれば(つまり戦争に負けなければ)、たとえ憲法をねじ曲げたとしても、国体を守れるという考えなのでしょう。
私は、必ずしも天皇制を廃止すべきだとは思いません。現在のように、国民の主権を侵害しない範囲であれば、天皇制が存続してもいいと思います。
ただし「国体=天皇制」という主張は、ちょっと受け入れられません。
正直な話、私からすれば、天皇制がなくなったとしても、日本は日本でい続けられると思います。日本のアイデンティティ(自己同一性)は保たれると思います。
しかし、今の日本から立憲制が失われたら、それはもう、今までの日本とは違う日本になってしまうと思います。それは日本を破壊する行為であり、侵略を受けるのと大差がないと思います。
ですから「国体=天皇制」という意見には賛同できません。
私は「国体=立憲制」を支持します。
国を守るために、安全保障法制は廃案にすべき
私は決して、国を守ることを否定しません。
むしろ、今の日本は、色々と問題はあるにせよ、守るに値する価値のある国だと思います。
しかし「戦争に勝ちさえすれば、それだけで日本を守ったことになる」という主張には、賛成できません。
国を守るとは、そんな簡単なことじゃないと思います。
今の安全保障法制は、国を守るのではなく、国を壊すものです。よって廃案にすべきものです。
確かに、憲法には改正の可能性があります。だから私も「護憲」というスローガンには違和感があります。
しかし、立憲制そのものには否定の余地がないというのが私の考えであり、故に「憲政護持」というスローガンには大賛成です(画像は1960年の安保闘争の時のもの)。
そうしたスタンスで、今後の安全保障法制、そして、日本の行方を見ていきたいと思っています。