もしかしたら、世の中には書かれるべき文章と、書かれざるべき文章があるのかもしれない、などと思う今日この頃……
まあ、書かれるべきだろうが書かれざるべきだろうが(少なくとも私の場合)結局は書くんですが。
「書く」という行為と社会
「書きたいなら書けばいい」……ええ、確かにその通りです。
でも、自己だけを見つめて生きるには、人間の本能はあまりに社会的で……故に「書く」という行為が社会の中でどう位置づけられるか、考えずにはいられません。
「書く」という行為の社会における位置づけ、と言っても色々幅が広いですから、ここではまず単純に「個人が『書く』ことが、社会にとって有意義な時とはどんな時か」という命題を立てて考えてみましょう。
まず第一に、書いた文章が読者に伝わる程度に意味が通り、分かりやすいものであることが大前提でしょう。
問題は書いた内容です。どのようなことを書けば、社会にとって有意義と見なされる可能性が高まるのでしょうか。
経済学的にはたぶん、この問いには「希少性のあることを書け」と答えるのが正しいのでしょう。「希少性と一緒に、需要もあれば完璧」ってな感じに。
では、希少性のない文章には、意味がないのでしょうか。
あるいは、需要のない文章には、意味がないのでしょうか。
そもそも、意味とはなんでしょうか。
……少なくとも、この文章が意味に乏しいことは、段々明確になりつつありますが。
書きたいことが色々ある
ただまあ、そんな私にも、一つだけ思うところがあるとしたらですね。
よく「専門家じゃないなら口を出すな」とか「いい加減なことを書くな」とか言わんばかりの人がいますが。
別にいいと思うんですよね、書きたいなら書けば。
そりゃあ中には間違った情報を書いてしまう場合もあるでしょうけど、私ってどっちかというと「騙される方が悪い」の側の人っていうか。
こんなこと書いたら「騙される方が悪いなんて言ってるやつの書くものなんて、誰が読むねん!」って突っ込まれそうで、そう突っ込まれたら「いやあ、あはは、そりゃそうですなあ」と苦笑いするしかないのですが。
でもねえ、これ、最近のマスメディアを巡る話でもよく出てきますけど、誤報を恐れるあまり、書くことを萎縮してしまうのも、それはそれでどうなんだという話だと思うんですよね。
誰だって嘘を書いてしまうことはあるわけで、それを恐れるのは当然のことですけど、その恐れが「書かない」ことにまで直結してしまうのは、いくら何でもまずいのではないかと。
「嘘を書かないよう気をつける」ために「書くのをやめる」ことになっては、本末転倒ではないかというか、バランスが悪いと思うんですよね。「書くことを続け」つつ「嘘をできるだけ減らす」ことのできる、ちょうどいいバランスが求められてるのではないかと。
ではそのバランスは誰が決めるかとなったら、それは個々人が自分の良識に合わせて決めるしかないわけです。誰かが誰かに自分のバランスを押しつけるのは、言論統制の匂いがします。
従って結論は先に書いた「書きたいなら、書けば」になるわけです。
もちろん、書いたものを批判されることはあるでしょう。
しかし「批判されるから書かない」とか「批判されるものは書いてはいけない」ということではありません。
あくまで「書きたいなら、書けば」なわけです。
では「書きたい」とは何か?
で、そうすると当然「書きたいとは何か?」という問いが立ち上がってきます。
心の中にある線があって「書きたい」という気持ちがその線を越えると書くけれど、越えない限りは書かない……という状況にあって、では「書きたい」という気持ちを上下させるものとは何なのか。
「お金」というのは、問題がないわけではないですが、分かりやすく理解しやすい動機ですね。
ですが「お金」意外の動機は、周囲はもちろんのこと、書いている当人にとっても分かりにくかったりします。
「一体なぜ俺はこの文章を書くんだろう」という思いが「別に書かなくてもいいんじゃないか」という諦めに似た感情に変わっていく。
なのにどうしても、書くことを諦めきることはできない……
書きたい、とは何なのか……真に難しく、今すぐここでは、答えを出せそうにありません。
とりとめのない話
というわけで、定期的にこのコーナーに出てくる「とりとめのない話」なのでした。
しかし、こんなとりとめのない話を「書きたい」と思うこともあるのですから、いやはや、人間というのは不思議なものです。私だけかもしれませんが。