学校の正体とは……?**この記事は、以前書いた「分からないことは分からないままにしておけ」に対する、2011年の大津市中学生自殺事件と、当該事件の2012年7月頃の報道過熱を受けての追記です**

 

別に、この事件の報道過熱をきっかけに以前書いた記事にクレームがついたということはないのですが、あまりにも通じるところが大きかったので、追記させていただきます。


 

大津市教委はなぜあそこまで墜ちたのか

2011年、大津市で男子中学生が自殺し、大津市教育委員会は「いじめがあったことは確認したが、いじめと自殺の因果関係は分からない」と発表しました。

これ自体は掃いて捨てるほどよくあることなのですが、2012年6月頃、大津市教育委員会がいじめの内容を実際にあったことよりも過小に偽って発表していたことが報道で明らかになり、報道過熱が起こりました。そしてその報道過熱をきっかけとして、警察が教育現場の強制捜査に踏み切るという比較的珍しい事件になったのです。

 

さらに、警察の強制捜査をきっかけに大津市教育委員会は前言を撤回し「自殺の要因の一つにいじめが挙げられる」ことを初めて認めました。

 

この文章を加筆している段階では、警察の捜査が進行中であり、どういう事態に発展するか余談を許さないのですが、ここでは元記事とこの事件の関連に的を絞って見ていきたいと思います。

 

大津市教育委員会の「いじめがあったことは確認したが、いじめと自殺の因果関係は分からない」という当初の公式発表は唾棄すべきものですが、私はこういった答弁が飛び出した理由が大津市教委メンバーの性格の悪さや能力の無さにあるとは思いません。

 

根本的な原因は、私が元記事で指摘した「近代の科学偏重主義が抱える、修正されるべき構造的な欠陥」の存在にあると考えます。

 

大津市教委の当初の言い分はこうでした。「自殺には色々な要因があるので、いじめが主要な要因だと断定することはできない」。科学の立場から見れば、これは実はその通りなのです。私が元記事で指摘したように、全ての原因を観測するのが不可能である以上、全ての結果を予測することはできません。同様に、結果を観測できたとしても、その原因が何かは、原因の全てを観測することが(もちろん、結果の全てを観測することも)不可能なので、確定はできません。

 

マッドサイエンス大津市教委の答弁は、科学が抱える構造的欠陥を利用した悪質な自己弁護であると言い換えることができましょう。ですが、このような答弁は、現代が科学偏重の時代だからこそ起こったのです。

 

「科学が抱える構造的欠陥を利用した悪質な自己弁護」は大津市教委の専売特許ではありません。かつては国が公害問題でも似たような答弁をしたことがあります。

 

いじめ問題にとどまらない「科学偏重」の悪影響

逆の例もあります。上に挙げた例は「原因を観測することが不可能なことを利用して原因不明と言い張る」というものですが、逆に「結果を予測することが不可能なことを利用して、そのような結果にはならないと言い張る」例もあるのです。原発推進派の主張がまさにこれに当たります。

 

元記事の標題は「分からないことは、分からないままにしておけ」です。ですが私は、「分からない」ことを理由に「ないものと思って対応してよい」という意味で言ったのではありません。

 

まともな科学者なら、原発は百パーセント安全とは決して言いません。九九パーセント安全とは言えるかもしれませんが、百パーセントはありえません。

 

「核の冬に対するシェルター」でしょうかだから我々は原発は百パーセント安全と信じて原発推進を選択することがあってはなりません。安全な確率は九九パーセントです、一パーセントの確率で危ないです、と目の前に材料を出されて、その上で原発推進・反対を選択しなければならないのです。

その時、出される判断は果たして科学的判断と言えるでしょうか? また、言う必要があるでしょうか?



我々が下す最後の最後の判断は、科学的ではありえないのです。そこには何か、非科学的な、人間的な要素が必ず入り込むのです。

 

原発の例で言えば、原発推進派の人たちは、原発がもたらす安い電力に目がくらんで、原発の危険性を不当に低く見積もっているのです、これは、当たった場合の利益の大きさに目がくらんで当たる可能性を不当に高く見積もる、宝くじの心理の逆です。科学的な判断ではありえません。極めて人間的・心理的なものなのです。

 

であるならば、科学者が常に「よりよい科学的推測」を目指すように、科学がカバーしきれない領域(つまり、ほとんど全ての領域)において、我々は「よりよい人間的判断」を目指すべきではないでしょうか。

 

まとめ

大津市教委のメンバーが科学偏重主義と人間軽視主義に陥っていなければ、あのような見苦しい弁解はしなかったはずです。大津市教委の当初の見解は、科学的には正しくても人間的には甚だ間違ったものでした。

 

もし大津市教委の中に科学の限界を知る人が多くいれば、より人間的に正しい発表・対応をしたでしょう。

 

まとめると、私が元記事で指摘したかったのは、科学的な判断「分かった・分からない」には限界があり、科学とは違った視点で判断することが大切だということです。

 

最後になってしまいましたが、全ての不本意な死を強いられた人々の、冥福を祈りたいと思います。

そして、いつか遠い将来、このような不幸がなくなりますように。