分からにゃい今日は、表題の通り「分からないことは、分からないままにしておけ」という話をします。

 


 

科学の時代

近代は理性重視の時代です。何かあった時はすぐに「感情的になるな」とか「もっと理性的になれ」とか言われます。理性は感性に優越すると言い換えてもいいでしょう。しかし、それはなぜでしょうか。

 

おそらく、近代が経験した科学の進歩に関係があります。科学には常に原因と結果があり、科学を進歩させたり、利用したりするには論理的な思考が必要です。そのため、感性より理性が優越するとされる世の中になったのでしょう。

 

実験といえばこれでは、科学とは何でしょうか。科学の根幹とはずばり、再現性です。同じ条件なら何度再現しても同じ結果が生まれる。一つの原因には一つの結果しかあり得ないという原因と結果の強固な結びつきこそが科学の根幹を成すものです。


 

この再現性という科学の特質によって、私たちは科学を進歩させたり、利用したりすることができます。そして、再現するために

原因と結果を考察する必要があり、そのために論理的な思考が、つまりは理性が必要ということになるのです。

 

 

科学の限界

しかし、逆に言えば、科学とはその程度のものだということでもあります。再現さえできればなぜそうなるのかは、利用する側としては知ったことではありません。現に、私たちが利用している全ての道具は元はといえば素粒子からできていますが、素粒子の世界はまだ完全には解明されていません。

しかし、科学実験から科学者が何かしらの法則性を見つけると、技術者はそれを技術として利用します。私が今原稿を打ち込んでいるパソコンの仕組みを完全には知らないように、エンドユーザーが道具を成り立たせている科学について知らないことは普通です。

 

にも関わらず、今の世の中では科学やそれを使いこなすための理性は一種の絶対的なものとみなされています。私は、まるでこれは「科学」という名の宗教のようだと思います。再現性を根本原理とする宗教です。確かに、この宗教は再現性のない前近代的な宗教よりはましでしょう。しかし、本当に絶対的なものでしょうか。

 

「バタフライ・エフェクト」という言葉があります。これは、ある場所で蝶(バタフライ)が羽ばたくと、遠く離れた場所で竜巻が起きるとかいう、思考実験です。観測が不可能なほど小さな変化が、積もり積もって大きな現象となる可能性があることを指摘しているのですね。日本の「風が吹けば桶屋が儲かる」に当たります。

 

このバタフライ・エフェクトという言葉を生み出したカオス理論は、要は結果となる現象には様々な原因があり、その全てを観測して事前に結果を予測するのは不可能だということです。もちろん、最近は翌日の天気予報がけっこう当たるようになってきたように、確率とか傾向とかいうものは算出できます。しかし、確率と傾向は完璧ではありません。

 

また、現代の量子論で扱われる「量子の不確実性」というのもあります。これは、原子よりも小さい粒子のレベルになると、粒子を「見る」という行為が粒子を動かしてしまうので、ある時点での粒子の位置などの状態を完全に知ることはできない、確率でしか表せないというものです。そう、技術が進歩すれば何でもコントロールできるようになるというのは単純すぎる考え方で、量子の不確実性という大きな壁があるのです。

 

まあ、「バタフライ・エフェクト」と「量子の不確実性」を挙げるまでもなく、この世の全てを予測することが不可能というのは、皆さんも本能的に分かっていると思います。全ての原因を観測することができないので、全ての結果を予測することも不可能です。確率と傾向があるだけです。

一般的に車のタイヤは三万キロもつと言われているそうですが、条件によっては同じ製品でも、それを遥かに越えてもつタイヤもあれば三万キロに達しないまま破損してしまうタイヤもあります。タイヤがいつ破損するかという、確率と傾向は算出できますが、その確率と傾向も実は確率と傾向にすぎず、完璧ではありません。

 

震災の記憶これは、科学は万能ではないことを示します。遠い将来、人類がそれまでに滅びなければ、3.11のような大震災を事前に予防するような技術を人類は手にするかもしれません。しかし、それで安心はできず、今度はより観測も対処も難しい宇宙規模の災害(超新星爆発の衝撃波とか)に対処する必要が出てくるでしょう。それを乗り越えたとしても、今度はより観測の難しい災害に直面するでしょう。

 


 

結局、(確率と傾向ですから)確実な安心・安全なんてあり得ないのであって、常に危険と隣り合わせの人生の質をこれ以上上げたいなら、科学的な安心・安全を求める姿勢を改めるべきではないか、などと私は思ったりしますが、これ以上これを言うとそれこそ宗教っぽくなるので今回はやめておきます。

 

結論

で、ここまでで私は科学や理性が必ずしも当てにならないということを述べてきました。今回、結論として言いたいのは「理性で分かることなんか何もない。もしあるとしたら、それはただ一つ。何も分からないということだけだ」ということです。

 

私たちは確実性の欠けた確率と傾向の世界に住んでいます。科学は確率と傾向を高めたり、可視化したりしてくれますが、確実にはしてくれません。であれば、開き直って、自分たちがそういう世界に住んでいることを前提にして生きていくしかないでしょう。

 

この世界で必要なのは「分からないことを、分からないままにしておく勇気」だと思います。

 

所詮世の中五里霧中学校の先生はよくこう言います。「分からないことがあったら聞けよ」と。でも先生は確率と傾向は答えられますが、答えられない質問もあります。「先生! 素粒子は今どこにあるんですか!?」。分からない質問に適当に答える先生は多いです。「お前の心の中さ」。それで、分かるはずがないのに分かった気になる人が大勢います。「分かりました、先生!」。

 


 

軍隊の世界では、指揮官が判断を下さねばならない時には、手元にある情報は全情報の三十パーセントだとか、それ以下だとか言われています。それ以上時間をかけて情報収集していると、敵に遅れを取って戦争に負けてしまうのです。

 

ですが、私たちはいつも戦争ばかりしているわけではありません。時には、分からないことを分からないままにしておいたほうがいい場合もあります。

 

分かるとは、決めつけることです。決めつけるのはある程度必要ですが、行き過ぎると時としてとんでもないことになります。

「この出来事から、私には彼が短気な人だと分かった」
「この出来事から、私は彼には短気な一面があると分かったが、それ以上のことはよく分からない」


どちらがより正確に彼の性質を捉えているでしょうか。

 

なかなか日常では難しいかとも思いますが、機会があったら「分からないことを、分からないままにしておく」ことを試してみてください。