鳥は自由(?)えー、今日は月並みなことを書きます。すいません。

先日、「エウレカセブン AO」というアニメをちょっとだけ見ていて「あー世の中の人は空を自由に飛びたいと思っているんだなー」などとぬぼーっと考えました。

 


 

ゲームとシミュレーターの再現度の差は決定的な戦力の差なのだよ!

しかし、リアル系の戦闘機シミュレーションゲーム(業界ではコンバットフライトシムなどと言いますが)をやっていると、飛行機というのは自由とはほど遠い乗り物だと分かります。急な操作は禁物ですし、加速や減速もアニメのように急にではなく、ゆっくりとしかできません。低速ではふらふらと横に揺れることも珍しくありません。また、飛行中は常に燃料を気にしていなければなりません。本物の飛行機では、ここに気象の要素や管制塔との無線交信の必要性などの要素も加わります。

 

しょせん人間は、飛行機という服を着ることによって、一時的に空にいることを許されている異邦人に過ぎず、今の技術レベルでは、遅かれ早かれいつかは地面に降りなければならないのです。

 

エースコンバットシリーズなどのフライトシューティングと呼ばれる非リアル系のゲームではこうした要素は端折られ、かなり自由に空を飛べるようになっています。しかしそれでも、私はリアル系の方が好きです。理由は、様々な制約の中で目的を達成しようと指向するそこに、人間としての創造性の活路を見いだすからです。平たく言えば、難しい方がやりがいがあるのです。

 

有効範囲が限られたレーダー、ミサイルが近づくまで鳴らない警報器、思うようにならない機体、限られた武装、減っていく燃料、点にしか見えない敵機や味方機……それらは、パイロットの能力を注ぐことによって可能性を開花させられる種です。制約があることによって、その制約の中でよりよいパフォーマンスを発揮しようというインセンティブが働き、人間の能力の価値も高まるのです。

 

A-10C攻撃機のコクピット

*画像はPCゲーム「DCS:A-10C」より。著者撮影。このゲームにおいて、A-10C攻撃機のコクピット内の計器は、ほぼ全て実機に近い動作をする(とされる)。


 

 

自由とは何か

人間の能力への礼賛は、時に行き過ぎたエリート思想などの負の側面ももたらしますが、一方で礼賛無しでは私たちは何のために頑張っているのか分からなくなります。私は「プレイ時間に応じて成果が得られるようなゲームは、娯楽としてはいいかもしれないがちょっと気に入らない」と常々言っています。プレイヤーの能力や、能力開発に傾けた努力を評価して欲しい、と。

 

まあただ、ゲームの世界でも能力競争をやるのは嫌だという人の気持ちもよく分かります。私なんかは逆に、ゲームみたいなことで人間の値段を決めないでくれ、と世の中に対して思ったりもしますが。

 

ともあれ、制約があると創造性が高まるみたいな話は、ゲームの世界だけではないようで、世界各国の文化にある定型詩、日本でいうところの短歌や俳句もそれに入るそうです。うーむ。なるほど。

 

なんかこうなると、「自由に空を飛ぶ」ってことが、本当にいいことなのかどうか怪しく思えてきます。「自由じゃない空を飛ぶ」ことだって、楽しいじゃない? みたいな。あーでも戦争とか国境とかそういうのは嫌だなー。かくいう私も、戦闘機は大好きですが戦闘機パイロットになりたいと本気で思ったことは一度もありません。

 

結局、自由と束縛のバランスってどこが一番いいんでしょうね。現実の世界では、自由にしすぎると単純に強いやつが勝つだけになる、ってのもありますよね。いや、強いやつにとってはそれが一番いいんでしょうが、世の中は強いやつばかりじゃないわけであって。うーん……。

 

ティーパーティー自由と束縛のバランスはどこがいいかってことは、自分の立場からしか言えないもので、これといった正解はない、ってことですかね。

 

(画像に深い意味はありません

 


 

 

なんか論点が明確じゃない文章を書いてしまいましたが、たまにはぬぼーっと肩の力を抜いて書くのもいいかなー、なんて、言い訳してみたり。