life_thumbnail死。それは、ヒトのみならず、全ての生きとし生けるものの宿命……とされています。

 

しかし、それはなぜでしょうか? なぜ、あるいは何のために、人は死ななければならないのでしょうか? 今回は、そんなことについて、私なりに考えてみました。

 

(なお、本稿において考える「死」とは、病死や事故死ではなく、人はみな老いて死ぬという「老死」についてです)

生命の起源を考えてみる

我々にとって既知の生命は全て、誕生に始まって死に終わります。死というものを考えるには、生命そのものについても考えなければならないようです。

 

life_from_oceanそもそも、原初の生命はどこから来たのでしょうか。太古の地球の海で、微生物として生まれた、というのが有力な説のようです。

 

しかし、これは「N億年前の地層で微生物の痕跡が見つかった」とかそういうようなものであり、従って「その頃には既に生物がたくさんいたらしい」ということは分かりますが、生命がいつ、どこで、どう生まれたのかはいまいち明らかではありません。

 

ここは帰納的に、結果から推論してみましょう。生物は全て、自己保存本能とか、自己増殖本能(繁殖本能)のようなものを持っています。ある意味、これは当たり前です。自己保存本能や自己増殖本能のない生物は、あっという間に絶滅してしまって、何億年も続いていきませんから。

 

とすると、生命の起源は、こんな感じではなかろうかと考えられます。太古の地球の海で、化学物質の配列が、海流に流されたり海底火山にかき回されたりしたのがきっかけで、たまたま自己増殖し続けるような配列になってしまった。もちろん、こんな風に偶然で生まれた生命の多くは、あっという間に絶滅してしまったでしょうが、中にはしぶとく生き残り、子孫を残し、増やし続けたのがいた……その末裔が、私たち、というわけです。

 

こういう過程は「ライフゲーム」と呼ばれるシンプルなゲームを眺めていると、分かりやすいかもしれませんね。ライフゲームでは、生命を模した駒をマス目上に置くと、一定のルールに従って生まれたり死んだりを繰り返していきます。

 

無造作に駒を置いただけでは、あっという間に生命は絶滅してしまいます。ところが(ゲームのルールの種類にもよりますが)、ある一定の配置をすると、死なずに無限に子孫を残し続ける、ということが分かっているのです。

 

「死」には理由がある?

というわけで、生命の起源がどうであれ、全ての現存する生命は子孫を残そうとします。それをしない(できない)場合は、絶滅して地球上から消えてしまうのですから、当然と言えば当然です。

 

ところで、ダーウィンの進化論は、皆さんご存知だと思います。生物は、環境に適応して進化していく、というやつですね。

しかし、この進化論には、一つ間違えてはいけないポイントがあります。それは、生物が主体的に「進化しよう」と考えて進化するわけではない、ということです。

 

lion進化とは、適応というより淘汰です。強い者が生き残るというより、弱い者が滅びるのだ、と言った方が、残酷ではありますが適切かもしれません。

 

我々人間が一人一人違うように、全ての生命も、同じ種の間でも少しずつ違います。その中で、環境に適応できる個性(専門的には「形質」でしょうか)を持った個体が子孫を残します。そうした優れた個性が、代を重ねていくにつれ、やがては一つの種全体の特徴となり、進化が進行して行くのです。

 

余談ですが、だからといって、劣った人間を断種して、優れた人間にはたくさん子供を産ませよう、などという「優生論」は、実は非合理です。人間は人間の優劣を判断できるほど優秀ではないことは、歴史が証明しています。「優生論」において優劣の判断を間違えれば、人類は滅亡へまっしぐらです。それを考えれば「優生論」に基づく政策などは、やめておいた方が無難・合理的である、というものでしょう。

 

閑話休題。ここでちょっと本稿の主題「死」に舞い戻ってみましょう。

 

実は、Wikipediaによると、単細胞生物の多くは「不老不死」なのだそうです。しかし、多細胞生物に関する限り、そうした生物は見当たりません。

 

この点と、先ほどの進化論を突き合わせると……導きだされる仮説が、一つあるのではないでしょうか……そう「死なない」という個性を持った生命は、進化の過程で淘汰されてしまったのはないか、と。

 

つまり「不老不死」という個性を持った生命は、単細胞生物程度にはなれたけれども、より高等な多細胞生物には進化し得なかったのではないか、少なくとも「不老不死の高等生物」は、進化の過程で生き残ることができなかったのではないか、と。

 

同じことを、誤解を恐れずに大胆に言えば、物を感じたり考えたりする高等生物であるための、必要条件の一つに「死を運命付けられていること」があるのではないか、という仮説にたどりつきます。

 

OHT98_rojiuranonekocyan500この仮説が事実だとすると「死なない生命」よりも「死ぬ生命」の方が、生き残る上で有利だった、ということになります。

「死」には、合理的な理由がある、ということになるのです。生存競争においては「いつか死ぬこと」の方が「いつまでも死なないこと」より強い、ということに……

 

果たして、そんなことはあり得るのでしょうか。

 

なぜ「死ぬ生命」は強いのか?

疑問がここまで来ると、私はなかなか推論を前に進めることができなくなりました。「なぜ老いて死ぬことが強いのか? 死なずにいつまでも生き続ければ、それだけ成功や失敗の経験も蓄積され、生存競争で有利だろうに」などという具合に。

 

しかし、その後、人生経験を積むにつれ、だんだんと私にも「死ぬ生命」の強さが分かってきました。

 

それは、端的に言うと「経験は人を強くするだけでなく、弱くすることもあり得る」ということです。

 

たとえば、過去の成功体験にいつまでもとらわれて、それが時代に合わなくなってもいつまでもしがみついているとか、あるいは逆に、過去の失敗体験を忘れまいとするあまり、実際には違うのに「これは昔失敗した時と同じだ」と考えてばかりで、動けなくなってしまったり、とかいったことです。

 

経験は、必ずしも生存競争で有利に働くとは限りません。むしろ、長過ぎる経験は、不利に働くことが多くなるのではないでしょうか。

 

生物学では「多様性」が重要な概念とされています。同じ人間でも多様な個性の人がいるのは、ある一つの出来事がきっかけで全滅してしまわないように、進化の過程で自然とそうなったのだ、と考えられているのです。

 

思うに「誕生と死」の繰り返しは、この「多様性」を、時間軸において実現するものなのではないでしょうか。つまり、同時代の同世代に多様な個性を持った人間がいるのが「横の多様性」であり、一方で長い時間をかけて誕生と死を繰り返すことにより、人間は「縦の多様性」を実現しているのだ、というわけです。

 

「死」は「世代交代」を実現する上で不可欠の要素であり「世代交代」は「縦の多様性」を保証するもの……つまり「死ぬ人間は強い」ということに、なるのではないでしょうか。

 

まとめ:だから死ねっていうわけじゃないよ!

えーと、なんだか結論が「老害死ね」みたいになってしまいましたが、決してそうではなく……おかしいな、書き始めた時はこんな展開になるとは思わなかったのですが(汗

 

先ほどの優生論と同じでして、人間は、誰が老害で誰が老害でないかを常に正しく判断できるほど優秀ではありません(これもまた歴史が証明しています)。

 

時代遅れの指導者を引きずりおろすことは、時として必要になりますが、上述の理由から、やるならできるだけ穏便にやるのが妥当です、とだけは言っておきます。

 

……予防線を張るのはこれぐらいにして。いかがだったでしょうか。珍しく長文で生死論なんぞ語ってしまいましたが。念のために書いておきますが、ここに書いたのは私が個人的に書いた「仮説」であって、専門家の方の意見を反映したものではありません……って! また予防線を張ってしまったよ!(泣

 

また無理に何か書こうとすると予防線を張ってしまいそうなので、今日はこのへんで。

それでは皆さん、どうかいい人生を!