PAK12_ookinakinoshitade1224500突然ですが、皆さん「相手の中に自分を見る」という経験をしたことはありますか?

……なんて抽象的な表現では、伝わるはずもありませんね。

 

もうちょっと分かりやすく「言葉を持たない虫や動物、樹木などが、自分に何かを言っているような気がする」という体験をしたことはありませんか、というところから、書き始めてみましょうか。

 

 

何かを語りかけられている気がする

PPP_tentoumushi500そんなことをつらつらと考えるきっかけになったのは、ある日の風呂場での経験からでした。


 

 

私が湯船につかりながら物思いにふけりつつ、ふと天井を見上げると、そこに小さな虫が張り付いていたのです。

普通なら、顔をしかめるところだったかもしれません。が、その時の私は、虫が天井の隅っこの方で固まったままじっと動かずにいるのを見て「馬鹿に礼儀正しい虫だな」と思いました。

 

なので大して嫌悪感も沸かず、その虫を殺したり追い出したりはしないことにしたのです。

 

もう一つ、こんな経験もありました。私がある時、ひょんなことから木の剪定をしていた最中に起きたことです。

 

奥の方の木を切るのに手前の木の枝が邪魔だったので、私は腹立ちまぎれに、少々乱暴にその枝を切り落としました。

自分でも「ちょっと乱暴すぎたな」と思いながら、前へ進もうとした私でしたが、何かが服に引っかかってしまいました。

最初は力任せに押し切ろうとしましたが功を奏さず、振り返ってよく見てみると、やはりさっき乱暴に切り落とした枝の切り口が、服に引っかかっていました。

 

a0011_000122枝を取り払ってみると、その切り口は鋭く、私の方を向いていました。私はそれを見て「よくも乱暴に扱ってくれたな」という、樹木からの抗議の意思表示ではないか、などと考え、自分の行いを少なからず反省させられました。

 

 

動物や植物が語る言葉は「自分の中」からの声

さて、ここで「虫や木や動物にも人間と同じように意志があって、時として人間はその声を聞くのだ」という方向に持っていくのは、私は少し安易にすぎると思います。

もちろん、虫や木や動物にも意志はあるでしょうが、彼らの意志は人間のそれとは異なるものであるはずです。

 

順を追って考えてみましょう。私がじっと動かずにいる虫を見て「礼儀正しいな」と思ったり、鋭利な切り口を向ける木に対して「抗議されている」と感じたのは、虫や木がそう思ったのではなく、私が(ある意味勝手に)そう思ったからであるはずです。そりゃそうです。彼らが自分の意志を伝える手段はほぼないに等しいわけですから。

 

虫や動物は人間とは身体の構造が異なりますし、樹木はもっと事情が異なります。それをさも、彼らが人間と同じような意識のあり方をしているかのように考えるのは、少し的外れといいますか、時として傲慢でさえあるのではないかと、私には思えます。

 

本論とは外れてしまいますが、そこはちゃんと切り分けた方がいいと思います。

 

他人の中に自分を見る

さて、そんな風に人間はしばしば動物や植物の中に「自分の声」を見いだすことがある、と私は思うわけですが、これ、動植物だけでなく、人間にも当てはまると思うんですよね。

 

ドイツの文豪、ヘルマン・ヘッセはこんなようなことを言っています。「人が人に対して怒るのは、その人の中に自分を見いだしているからだ。その人の中にいる自分に対して怒っているのだ」と。また「相手の中に自分との関連性を一切見いだせないような相手に対しては、怒りを感じ得るはずもない」とも。

 

こういったことは、何も怒りに限ったことではないのではないか、と私は思います。

 

「同情」という言葉があるように、苦しんでいる相手を見て、苦しんでいる時の自分を思い起こし、手を差し伸べたくなるような、そういう思考の働きが人間にはあります。

 

ELFA85_tutujisaku500こういった「情感の豊かさ」は、人間の中でもしばしば欠いている人がいるほど得がたいものでして、幸運にもこれをお持ちの方は、是非そういった心の機微を大事にしていただきけたら、と思います。

 

一方、先ほども少し触れたように、こういった感情は相手からの働きかけによって生じたものではなく、自分の中から自発的に沸き上がってきたものであるはずだ、という点も、忘れないようにしなければなりません。

 

何が言いたいかと言うと、たとえば、親切にしたのに感謝されなかったからといって「困ってるから助けてやったのに、それはないだろ!」などと逆ギレするようなことは、みっともないのでやめた方がいいだろうなあ、と思う次第です。