Soviet_Union,_Lenin_(55)唐突ですが、私は左翼です。

 

左翼に向けられる批判の一つに「なんで『セット売り』なんだ?」というのがあります。たとえば「左翼の主張の中でも、労働者の待遇改善は良いと思う。でも、行き過ぎた平和主義には賛成しづらいので、私は左翼になりたくない」などといったものです。中には逆に「平和主義は良いと思うが、いたずらに弱者を救済するのは良くない」という人もいるでしょう。

 

別に「あなたの言っていることは間違いだからあなたも左翼になりなさい」とまで言う気はないのですが、一応、左翼の端くれとして、「いや、それは〜だからなんだよ」と反論したくなる時もあります……まあ、私もまだまだ勉強中なので、ごく大雑把にしか言えないのですが、そこはご堪忍。

 

で、一言で言うと、全ての「セット売り」の理由は「理論的一貫性を保つため」というところに帰着します。先ほどの例で言うと「弱者救済の一方で平和主義を放棄すると(あるいは逆でも)、論理的矛盾が発生するのでNG」というわけです。

 

別に、全ての人が生活のあらゆる面において理論的一貫性を追求すべきだ、などとは、私も思いません。が、左翼とはそういう人種なのです(この点では、右翼も同じ(ハズ)だと思います)。

 

そこで今回は「なぜ弱者救済と平和主義は『セット』でなくてはならないのか」をテーマに書きたいと思います。

 

そもそも平和とは何か?

一般的に「平和」とは「戦争がない状態」だと考えられています。しかし、国際政治学などの学会や、あるいは一部の平和団体の間では「戦争がない状態」というだけで、諸手を挙げて喜ぶことはできない、という認識が、現在では一般的です。

 

皆さんもよく知っている分かりやすい例が、北朝鮮です。北朝鮮は約半世紀に渡って、自国を戦場とするような戦争状態を経験していません。この点では、北朝鮮は日本と同じぐらい長い平和を享受していると言えます(国際法を厳密に考えると北朝鮮は未だに戦争状態にあるのですが、戦火を経験していないという意味では、やはり平和と言って差し支えないでしょう)。

 

The_starving_Livilla_refusing_foodしかし、そんな「平和」な北朝鮮の国民は、果たして幸福と言えるでしょうか? 特にここ二十年の間、北朝鮮は戦争こそしていませんが、農民は飢え、政治的な権利はないに等しく、脱北者が後を絶たない有り様です。

 

さらにもう一歩進めて、そんな北朝鮮の国民が、現体制を打倒するために反乱を起こしたと仮定しましょう。

 

反乱を起こすのは、もちろん違法です。北朝鮮ならまず間違いなく死刑が適用される重罪でしょう。また、反乱となれば内戦ですから、明らかに「平和」を踏みにじる行為になります。悲惨な殺し合いとなるでしょう。

 

しかし、だからといってそれを外国で見ている我々は「北朝鮮の政府が反乱を起こした国民を死刑にするのは当たり前だ。違法だし、平和を踏みにじる行為だからだ」などと言って、北朝鮮政府を応援すべきなのでしょうか?

 

中にはそういう人もいるでしょう。でも、私はそうではありません。北朝鮮の国民が、たとえ平和を踏みにじってでも、内戦に打って出るのは、無理もないと思います。

 

……もっとも、現実の世界では軍のクーデターなど「国民が立ち上がった」とはとても言えないような「既得権益者同士の権力争い」でしかない内戦もあります。また、実際に起きた内戦がどちらに該当するのか、判断するのはとても難しいことです。

 

が、今回は理論の検証をしているだけなので、難しいことは抜きにして、簡単に考えることにします。

 

平和主義と弱者救済はセットでなくてはならない

「北朝鮮国民が反乱を起こす」というたとえで明らかになったのは、単純に「平和=戦争がない状態」というだけでは、人々は必ずしも幸福とは言えない……平和を踏みにじってでも現状を変えようとする人がいても無理はない、ということです。

 

しかしだからといって、平和が大事ではない、ということではないですよね。

 

ですからここに「平和主義と弱者救済はセットでなくてはならない」という理論が成り立つわけです。

 

Eugène_Delacroix_-_La_liberté_guidant_le_peuple平和主義を主張する一方で、弱者救済を怠ってしまったら、弱者は現体制を力で打倒する道義的正当性を得ることになってしまうかもしれません。

この時、平和主義はただ単に既得権益者の利益を守るための、都合の良い方便に成り下がります(多くの場合、平和は既得権益者に都合良く働きます)。弱者救済を伴わない平和主義は、ただの「勝ち逃げ主義」だというわけです。

 

こういう考え方は、現実の国際社会を見る時にも一助を与えてくれます。よくテレビで国際ニュースを見ていると「力による現状変更に反対する」などといった文言が出てきますが、それを言っているのは、どんな国でしょうか。多くは、アメリカ、日本、西欧諸国など、昔からの強い国、もしくは、そのような国の支配下にある国ではないでしょうか。

 

もちろん、私も平和は大事だと思います。しかし、「平和が大事だ!」と呼びかけても、相手からすれば「自分たちに都合の良いことを言いやがって」としか思っていないかもしれない、ということも、知っておいて損ではありません。

 

そういう相手には、一種の「救済措置」を用意してあげることが「平和の正当性」を維持するために必要になってくるかもしれない、ということです。

 

 

平和主義を伴わない弱者救済について考えてみる

先ほどの北朝鮮の例では「弱者救済を伴わない平和主義」について考えてみました。ここでは少し、反対の「平和主義を伴わない弱者救済」について考えてみましょう。

 

実は「平和主義を伴わない弱者救済」の時代を、既に人類は経験してきています……帝国主義の時代です。

 

帝国主義の時代、西洋列強はその強大な軍事力でもって、世界各地を侵略して植民地とし、そこから吸い上げた富で繁栄を享受しました。

 

Jallianwallah植民地から吸い上げた富の一部は、本国の福祉向上にも使われています(今ほど充実してはいませんが、当時も先進的な国の中には公費義務教育制度や年金制度を持つ国はありました)。その代償として、多くの植民地人が悲惨な生活を強いられました。

 

現代でも「平和主義を伴わない弱者救済」の政策を採用したら、外国を侵略してそこから吸い上げた富で自国の弱者を救済するという、独善的な体制に行き着くのは、まず間違いないでしょう。

 

中には、その方がいいという人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。

 

また、言うまでもなく、このような体制・政策を開けっぴろげに推し進めることは、第二次大戦後に明確に否定されました。

 

 

まとめ:理論的一貫性の世界をのぞいてみるのも、たまには面白いかもよ

最初に書いた通り、私も、全ての人が理論的一貫性を最重視すべきだとまでは思いません。

 

ただ、普通の人でも、たまにちょっとのぞいてみると、面白い発見があったりするんじゃないかなあ、などと、思うことはあります。

 

そういうわけで、今回の記事は「普通の人」(という言い方もどうかと思いますがw)に向けて書いてみましたが、いかがだったでしょうか。

 

補足すると、左翼にも色々と流派があって、中にはあらゆる形態の戦争を否定する「絶対平和主義」という人も確かにいます。が、今回の記事はこれとは違う立場で書かれました。

 

また「弱者救済のための戦争はアリだろ」と言っても、実際に起きた戦争が本当に「弱者救済のため」なのか否かを判断するのは非常に難しい、ということも、忘れずに付け加えて起きたいと思います。

 

たとえば、左翼の多くは「邦人保護のために自衛隊が外国で武力行使をできるようにする」という政策には反対ですが、これは「海外の邦人など死んでしまえ」ということではなく、かつて、日本が中国や朝鮮を侵略するために軍隊を送った時、多くが「邦人保護」の名目だったから、なのですね。つまり「その自衛隊の派遣が、本当に邦人保護のためなのか(本当は侵略目的ではないのか)否か、判断するのが非常に難しい」から、慎重にならざるを得ないのです。

 

と、我ながら最後だけ妙に具体的になってしまいましたが(汗)「たまには左翼にも言いたいことを言わせてくれ!」ということでして(滝汗)。

 

しかし、またこんな記事を「理論的一貫性シリーズ」として書いてみたいものですが……できるかなあ。

 

では、今日はこんなところで。