長年ひきこもり続けた50代の男が次々と人を刺し、小学生の女の子と外務省職員の男性の二人が死亡し、他に十八人が重軽傷を負う、という悲惨な事件が起きました。
この事件については、人生に絶望した男が周りの人間を道連れにして自殺しようと思った「拡大自殺」であると見る向きが多く、私も、この見方についてはかなりの程度当たっているだろうなあ、と思います。
さて、問題はここからです。
このような拡大自殺について、一部の著名人およびネット上の一般人から「死ぬなら一人で死ね」という暴言が飛び出しているようです。
結論から言えば、このような「死ぬなら一人で死ね」などと言って加害者を突き放すような態度をとる人間は、他人の命よりも自分の感情を優先させる身勝手な人間です。
今回の記事では、これについて語ります。
「死ぬなら一人で死ね」という言葉で満足するのはお前の感情だけ。そして、お前の感情では誰も守れない
そもそも「死ぬなら一人で死ね」などと発言する人たちは、一体何を考えているのでしょうか。
だって、普通だったら「死ぬなら一人で死ね」なんて言いませんよね?
たとえば「あー疲れた。死にたい」などと愚痴る同僚に「頼むから、死ぬなら一人で死んでね」なんて口走ろうものなら、確実に友達をなくします。
ということは「死ぬなら一人で死ね」という人は、まともな精神状態ではない……おそらく、興奮しているのだ、と考えることができます。
彼ら自身に、なぜ興奮しているのかと聞けば、おそらく彼らは「被害者のために怒っているのだ」と答えるでしょう。
しかし、私にはこれは大いに疑問です。
大多数の人間は、よく知りもしない他人のことでいちいち怒れるほど優しくありません。
その証拠に、あと1ヶ月もすれば、この事件は多くの人から忘れ去られるでしょう。
では、彼らはなぜ(一時的に)興奮しているのでしょうか?
私が思うに、それは彼らが「犯人を怖がっているから」です。
彼らが「犯人を怖がっている」とすれば「死ぬなら一人で死ね」と言いたくなるのもわかります。
要するに彼らは「俺はお前よりも強いんだぞ!」と言いたいのです。マウントを取りにいっているのです。
怖いから、マウントを取ることによって安心しようとしていて、その結果出てきた言葉が「死ぬなら一人で死ね」だったというわけです。
そう考えると、彼らも可愛らしいというか、可哀想というか、そういう風にも思えてきますが……まあ、それは置いておいて。
私が言いたいのはつまり「死ぬなら一人で死ね」は、怒りにしろ恐怖にしろ、言っている本人の感情を満足させるための言葉でしかない、ということです。
私に言わせれば、彼らは死んだ人の命のことなんか何も考えちゃいません。自分の感情を守ることの方が大事なのです。
なぜなら、本当に被害者の命を大切に思うのだとしたら、どうにかして似たような事件の再発防止を図れないか、と考えるべきだからです。
もしそうなら、語られなければならないのは「社会から孤立し、絶望している人たちをどうしたら助けられるのか」であって「死ぬなら一人で死ね」などという、加害者を突き放すような言葉ではないはずです。
おそらく、彼ら彼女らは心の奥底では「どうせ自分が殺されることはない」とたかをくくっていて、他人事だと思っているのでしょう。
しかし、私は違います。
このまま社会の分断が続いたら、同じような事件が次々と起こって、その時は自分や自分の大切な人が被害者になるかもしれない……だから、再発防止のために、何か意味のあることをし、意味のある言葉を語りたい、と私は考えています。
それこそが、本当の意味で「被害者の立場になって考える」ということなのではないでしょうか。
「加害者の気持ちも考えよう」と主張すると、よく「それは偽善じゃないのか」などと言われます。
しかし、私は冷静になることがカッコイイと思っているわけでも、理性的であることを目的としているわけでもありません。
ただ、事件の再発防止策について考えたいと思っているだけです。
そんな私と、自分の感情を満足させるためだけに「死ぬなら一人で死ね」などと発言する人たちと、一体どちらが偽善者でしょうか?
動物のくせに人間のフリをするな
……まあ、日頃から裁量権のない単純な仕事ばかりやっている人は、責任感がなくなって感情の思うまま動物のように行動したり無責任な発言をしたりしたくなるんでしょう。
ですが、そんなのは「人間じゃないやつが人間の言葉使って人間の話に入ってくんじゃねーよ」って話です。
ネットの発達で、公共の空間と私的な空間の境界が曖昧になっている……というか、実際にはネットは公共の空間なのに、私的な空間と勘違いしている人が多いです。
古来から公共の場では、人間にはそれなりに理性的な振る舞いが求められてきたものです。
思うまま、感情のままに行動したり発言したりすることが良いことだと考える人も多いみたいですが、実際には、人間が感情をむき出しにするとロクなことがありません。戦争もそうだし、セクハラやDVだってそうです。
だから、もし人間として認められたいなら、人間に相応しい発言をするべきです。
感情を押し殺せ、というわけではありません。ただ、感情にはそれに相応しい場所(私的な空間)があるはずです。
公共の場では、人間は理性的に振る舞うべきなのです。
……にしても「死ぬなら一人で死ね」って、まるでトランプ大統領の暴言みたいですよねえ……やっぱ伝染しちゃってるのかなあ。
絶望は確かに存在する
さて、また別の話ですが、一つ言っておきたいがありまして、それは、日本にはどうしようもないほどの絶望のどん底にいる人間が大勢いる、ということです。
世の中は、会社や学校に毎日通って、家に帰れば優しくしてくれる家族がいてと、そんな生活を送っている人間ばかりではないのです。
そのことを忘れがちになるのは、あなたの生活が絶望から隔離されているからです。この社会が分断されているからです。
進学や就職を経験するたびに、そこからドロップアウトした人たちとの接点は少なくなっていき、やがては消滅していく。そうしているうちに、多くの人々は忘れてしまうのです。自分が全く知らない世界が、確かに存在しているということを。
今回の事件を見て、私の脳裏には「格差殺人」という言葉がよぎりました。
数十年間ひきこもり続けた男が、語学に秀でた外務省の職員や、裕福な家庭の子女が通う名門小学校の児童を殺す。
格差によって分断された社会においては、犯罪の被害者と加害者という形によってしか、異なる他者との接点は生まれないのだと、つくづく感じさせる事件でした。
そして、私がそのことを実感するのは、凄惨な事件が起こった後だけなのだということが、無念でなりません。
監視社会
さて、そういうわけで私の主張は「事件の再発防止のためには軽々しく加害者を突き放すべきではない」ということであり「再発防止のためには、絶望の底に叩き落とされた人を救う必要がある」ということなのですが……正直な話、実際には、世の中は全然別の方向に向かう可能性が高いんじゃないかなあ、と思っています。
それは「監視社会」です。
今回の事件や、今後起こるであろう似たような事件がきっかけとなって、社会は絶望の底に落ちた人々のことを「犯罪者予備軍」として、たとえばAIなどを駆使したシステムによって監視するようになる……そんな社会が訪れる可能性の方が、ずっと高いのかもしれない……。
……最近思うのですが、人間は「時代が進むにつれて進歩していく」などという考えを捨て去るべきです。
実際の歴史においては、人間の進歩はしばしば後退しています。
代表的な例がナチスです。ナチスは、国家というシステムや、毒ガスという科学技術をつかって大勢の人を殺しました。もし文明や科学がなかったら、ナチスはあれほど多くの人を殺すことはできなかったでしょう。
ですから、私たちはもっと「油断していたら、人類は後退するかもしれない」と自戒し、気を引き締めるべきだと思うのです。
……まあ、私なんかが責任感を持って発言したところで「歴史の大きな流れ」の前では無力かもしれませんがねえ。
でも「死ぬなら一人で死ね」とか言ってるやつらを見ていると「後世の人から、こいつらと一緒だと思われちゃたまらないなあ」とも思うんですよねえ。
……ああ、いま、無性にこれが言いたいです。
やれやれ。