出発は翌年の早い時期にと決まりました。英国の気候が良くなる春先に到着し、遅くとも気候が悪くなり始める秋には帰ってくる計画でした。私は家庭教師から山のような宿題を持たされて、父と付き添いの一人の侍女と共に、横須賀からロンドンへ向かう船へと乗り込みました。しかし、四十日間の船旅と聞いた時は、私は目の前が真っ暗になる思いを味わいました。生来じっとしているのが嫌いな私が、狭い船の上で一ヶ月以上も我慢できるとは思えなかったからです。とはいえ、乗ってしまえば何とかなるだろうと、私はやけくそ気味に考えていましたが、実際のところ、これは当たっていました。
 かの産業革命期の当主の時代から、我が家の標語は質素倹約です。この時も、あまり贅沢な船旅は許されませんでした。それでも私は、船旅を楽しみました。船には外国人も多く、小さかった私は珍しがられて、色々な大人から可愛がられ、いい思いをしました。その中には、留学していた日本から帰る英国人の青年もいました。私はこれから行く英国の青年にいたく興味を持ち、甲板で見かける度に話しかけていました。彼も気前よく、流ちょうな日本語で答えてくれました。彼が繰り返し語ったのは、英国は今はアジア列強の後塵を拝しているが、いずれ世界のどこにも負けない素晴らしい国になってみせる、という強い意気込みでした。私は燃えるように輝く彼の目に魅せられました。そして、遅かれ早かれ、英国が日本を始めとするアジア列強と対等な国になることを疑いませんでした。
 そうしたこともあって、私の船旅は楽しいものでした。今になって思うと、あの頃は世界恐慌の直前で、日中や英欧の対立も深まる前で、戦間期の一番いい時期だったのかもしれません。第一次世界大戦のもたらした惨禍から、先進国では紛争の解決に軍事力を用いることは違法であるとの考え方が一般的になり、その平和主義思想が最も華やかな時代だったのかもしれません。
 世界恐慌において、人類はその平和と博愛への決意がどの程度のものなのか、試されることとなりました。しかし、人類がその試練に耐えうるだけの資質を、少なくとも当時は持ち合わせていなかったことは、歴史が教える通りです。

 

 そんな船旅を終えて、私は目的地のロンドンへと降り立ちました。一歩降り立ったその瞬間から、私はここは異国であることを思い知らされました。まず、空気が違います。英国の空気は、あえてたとえるなら、清涼すぎて味がついているように感じられる、冷たい水を飲んだ感触に近かったかもしれません。潮の香りは日本とさして変わらなかったはずなのに、私はそう感じました。
 次に私の注意を引きつけたのは、港で働く港湾労働者たちでした。薄汚れた格好をした彼らは、列を成して肩に担いだ荷物を運んでいきます。がやがやと声を掛け合いながら仕事をする様が、傍から見ているとやかましくも思えましたが、私はそんな日常の何気ない光景からも、なんだか彼らの持つ活力を感じたような気がしました。
 私と父は、侍女と共に辻車(タクシー)でロンドン市内の飯店(ホテル)に向かいました。私は窓から見える街並みに齧りつかんばかりの見入りようでした。絵や写真でしか見たことのなかった、石造りの異国の街並みや、そこを歩く人々の異様な風采は、私に少なからず衝撃を与えました。しかし私は、それを見て日本の方が優れているなどとはちっとも思いませんでした。確かに、目に入る端々に未開さの一端を見ることはできましたが、私はむしろその異国情緒溢れる光景に酔いしれ、感動したと言って差し支えありません。