どのような形であっても、戦えば無傷では済みません。我々アジア人は、インドやアラブやアフリカ、時にはヨーロッパの植民地で、多くの戦争を戦い、そのほとんどで一方的な勝利を収めましたけれども、それでさえ、振り返ってみれば、払った犠牲は小さいとは言い難いものでした。
 ましてや、同等の技術を持つ近代国家同士が総力戦を戦えば、勝ち負けには関係なく、その出血は並大抵のものではありません。
 戦前は、高速で進入する爆撃機を探知した時には手遅れだから、航空戦では爆撃側が圧倒的に有利だと言われていましたが、日本空軍が整備した電探網は、この爆撃機万能論を過去のものにしつつありました。もちろん、中帝空軍もそれを察知して、何度か電探基地へ空襲をしかけてきました。しかし、日本軍作業員の尽力により、破壊された基地はその都度速やかに復旧され、襲来する敵機の情報を送り続けました。
 とはいえ、その結果訪れたのは、日本軍の圧倒的勝利などではなく、飛行機と飛行機が真っ向からぶつかりあう、典型的な消耗戦でした。
 戦闘機は、比較的豊富にありました。件の航空機生産大臣がいよいよ本領を発揮して、大量の戦闘機を生産していた上に、なぜかこの時期の中帝空軍は戦闘機生産工場を主要な爆撃目標としなかったからです。
 問題は飛行士の不足でした。戦前からの優秀な飛行士は、激戦の中で次々と失われてゆき、補充されてくるのは、戦争が始まった後に生まれて初めて飛行機に乗ったというような、当てにならない新米ばかりでした。それも、この時期は訓練期間が短縮に次ぐ短縮を受け、私の時とは比べものにならないほど短い訓練で配属されてくる新兵が増えました。
 そんな戦況の悪化を受けて、私はある日、中尉への昇進と三機編隊の編隊長への就任を命じられました。そろそろ来る頃だと思っていた私は、顔色を変えないように意識しながら、飛行隊長に敬礼した覚えがあります。こうして私は二人の部下を持つようになりました。実戦配備から二ヶ月足らずの私ですら、すでに古参兵の仲間入りを果たしていたのでした。