一九三九年九月から、日本帝国および華南共和国を筆頭とする連合国は、中華帝国以下の枢軸国と交戦状態に入りました……少なくとも、法的には。
 というのは、北にある満州国の国土が中帝軍によって蹂躙される間、中国南部の長江要塞線に展開した日南連合軍は、ほとんど攻撃らしい攻撃を行わず、実質的には、満州国の敗北を見て見ぬ振りをしたからです。
 ことここに至ったにも関わらず、日本および華南は、第一次世界大戦の再来を恐れていたばかりか、今後の展開次第では、早期講和に持ち込めると思ってさえいたようなのでした。
 十月に満州が制圧されてから、翌一九四〇年五月に至るまでの約八ヶ月間は、この大戦において「まやかし戦争」と呼ばれる期間でした。この間、南部戦線の日南連合軍は脆弱な中華帝国の脇腹を突こうともせず、ただ無為に時を過ごしていたのでした。
 後世の人からすればこれほど首をかしげる事態もなかったかとは思いますが、私を始めとする同時代人の実感としては、中ス両国による満州侵略でさえ、世界大戦の端緒などではなく、ほんの些細な局地戦に過ぎないのではないかという感覚を持っていました。いま長江要塞線を越えて中華帝国領に踏み込めば、それを本物の世界大戦にしてしまう可能性があり、日南両国の政府もそれをためらっていたのです。そうしている間にも、中華帝国やその腰巾着の朝鮮王国が、周囲の中小国をしらみつぶしに併呑していたのに、です。

 

 この間は、何を以て誰を非難するべきかよく分からない摩訶不思議な時期ではありましたが、今になって思えば、この「まやかし戦争」ほど私の命を救ったものはありませんでした。
「まやかし戦争」の期間において、私は日本空軍で戦闘機乗りとなるための訓練を受けていました。当時の私は、臆病な政治家たちが中華帝国の横暴を見て見ぬ振りをしようとするのに憤り、早く全面戦争になればいいとか、こんなことなら志願なんかするんじゃなかったと後悔しかけたりしていました。しかし、後になって振り返ると、三九年十月に入隊したことによって、私は生き延びることができたと言っても過言ではないのです。


 四〇年の夏にもなると、中帝軍の猛烈な爆撃を受けた日本は、飛行資格を持つ若者ばかりか、持たない若者ですら片っ端から徴集して戦闘機に乗せるようになるのですが、最も短い者ではわずか二週間の訓練で実戦に投入されていました。そういった、空中戦どころか単葉戦闘機の操縦においてすら何も知らないも同然の後輩たちの損耗率は、目を覆わんばかりの惨憺たるもので、あの中にもし私がいたなら、到底今日まで生きながらえてはいられなかったでしょう。