色々あって、二時間後、私は男爵邸のエントランスホールの前で、スティーブに対峙していました。
「答えを聞きに来た……だが、安心していい」私は、我ながら自尊心が微塵も感じられない、嘲笑的な声で言いました。「憲兵は来ない」
 その時、スティーブは、それまでろくに動かなかった顔の皮膚を、柔和に歪めて、孫にでも接するような、人の良さそうな笑みを浮かべました。
「ミスター・キリクラ」彼がそんな表情をしたのも、そんな表現をしたのも、この時が最初でした。「安心するのは、あなたの方ですよ」

 

 スティーブはただ一言、ついてきてください、とだけ告げ、私を案内しました。
 彼は屋敷の裏口を出て、緑の広がる庭へと私を導きました。故郷の生家なら、今頃は梅が、次いで桜が咲く季節です。アーリントン男爵邸の英国式庭園では、地面は、日光を浴びて鮮やかな緑を見せる芝生に覆われ、花壇には星の数ほどの小さな花が植えられていました。
 私たちは、敷石の上を歩いて、庭の奥へと進みました。庭は腰の高さほどの生け垣で区切られていて、生け垣の木々は、白や黄色のたおやかな花を数多く咲かせていました。足下の敷石の脇にも、草花がささやかに植えられています。春の暖かい風が、優しく頬をなで、心地よい花の香りを、微かに運んできました。
 スティーブが目指しているのは、庭の隅の小高い丘にある、小さな東屋でした。東屋は東洋風の作りで、木の柱が六本配され、瓦葺きの屋根を支えていました。柱の間にはベンチがあって、そのうちの一つ、私たちから背を向ける位置に、誰かが座っているのが見えました。が、屋根の陰になって薄暗く、誰かはよく分かりませんでした。
「あちらです」
 スティーブが、立ち止まって東屋を指し示します。
「では、私はこれで」
 そう言って、彼は軽く一礼し、来た道を戻って去って行きました。
 私は敷石に沿って丘を上がって、東屋を目指します。
 近づくにつれ、私にはその人影が誰なのか、分かってきました。
 いいえ。
 本当は、ずっと前から、そんな気がしていました。
 英国で出会った、綺麗なお嬢さん。
 私が犯した罪の象徴であり、私がかつて持っていた、良心そのものでもある人――
『シンシア』
 私が彼女の名を呼ぶと、彼女は立ち上がり、こちらを振り向きました。
 何をそんなに怯えているの――思わずそう口走ってしまいそうな、彼女の顔でした。
 見ると、手に何かを握りしめています。
――ああ、そうか。
――そういうことなんだ。
 シンシアが、私の元へと近づいて来ます。
『シンシア』私は精一杯、笑みを作って浮かべました。涙が流れないようにしながら。『僕は何も見なかったことにするよ。だから――』
『違うんです』
『その時計を売って、マリーばあさんのために――』
『違うんです』
『誰にも言わないから――』
『違うって言ってるでしょ! 最後まで聞きなさいよバカ!』
 いつの間にか、怯えきっていたシンシアは跡形もありません。
 私は一つ、深呼吸をして、
『分かった、聞くよ』
 と言いました。
『……馬鹿なボーイがいたんです。私の気を惹こうとして、こんな馬鹿なこと。そのボーイは、すぐにぶん殴って、今すぐ出て行かないとミスター・スティーブに言いつけると言ったら、その日のうちに屋敷を逃げ出しました。だから、これは、お返しします』
 シンシアが私の元へ歩み寄ってきて、手にした懐中時計を差し出します。
 間違いなく私の物でしたが、私はそれに手を伸ばそうとはしませんでした。
『聞かなかったことにする』私は言いました。『だから、その時計は君の物にしてくれ』
『……そんなことで私が喜ぶとでも思ってるんですか。だとしたら、ひどい侮辱だわ』
『……』
『何よ、そんな空っぽで、いじけたみたいな、情けない目をして。私の好きなマコトはどこに行ったの』
『……』
『聞こえない? じゃあ思いっきり大声で言ってあげる。私が欲しいのは、こんな時計なんかじゃない! あなたなの! あなたが欲しいのよ、マコト!』
 庭園中にこだまが行き渡った頃、耐えきれなくなって、私はようやく口を開きました。
『シンシア、言ったはずだよ。僕は君と一緒になることはできない』
 すると、シンシアは、今度は急にしゅんとなって、でもすぐに自分を奮い立たせるように前を見て、私に面と向かって言いました。
『マコト。一つだけ聞かせて。私の国が……私があなたにしてきたこと、あなたは許せる?』
 もちろん、私の答えは決まっていました。
『許せない』
 私はシンシアを前に、一方的にまくし立てました。
『君のことは好きだ。けれど、僕はあまりに多くの死や、不幸を目の当たりにしすぎた。君だけじゃない……僕は、僕自身を含めた、全ての人間が憎い。筆舌に尽くしがたい不幸の上に、何の自覚もなく生きている、愚かな生き物が、悪魔たちが嫌いだ。許すことは決してできない』
『私もよ』
 シンシアは、そう言いながら、笑っていました……私は彼女の考えが理解できず、おそらくはそれゆえに、ただぼうっと、彼女を見つめました。
『私は、空襲で家が壊されて、友達や家族が死ぬのを見た。お父さんや、お兄さんや、弟たちを兵隊に取られた。そんな世界を作ったアジア人が憎い。アジア人と同じ事をした、英国の偉い人たちが憎い。そんな人たちに、文句の一つも言えない、無力な自分が憎い。それだけじゃなくて、人間なんかみんな大嫌い。許すことなんかできない……でもね、あなたのこと、好きなの』
『……そんなことが、何かの慰めになるとでも?』
『いいえ、慰めにはならないわ……でも、あなたのことが好きだから、私は、この時計をあなたに受け取って欲しいと思うの』
 ああ
 この子は、僕と同じだ。
『私、許されたいの。私がどんなに憎らしい娘か、私が一番良く分かっているのに、それでも、あなたに許されたいの。いいえ、あなただけじゃない。世界中の全ての人に、私は許されたい。そして、私も許したい。あなたが何をしてきたのか、私は知らない。でもきっと、私と同じか、もっとひどいことをしてきたんだわ。それでも、私はあなたを許したいと思う。許せないんだけどね。どこまで行っても、許せないんだけど、でもたとえ許せなくても、許したいと思うことはできる。そんなちっぽけなことにも、意味があると、私は信じたい』
 この子は、僕がこの子を愛するのと同じぐらい、僕を愛してくれている。
『許すことも許されることも最初から諦めて、お互いに遠ざかったり、形だけのやりとりをするのは、私はいや。決して許すことはできないと分かってはいても、許したいと思う。決して許されることはないと分かっていても、許されたいと思う。あなたに許されるためなら私、何だってするわ。たとえ許されないと分かっていても。だから、あなたにも、私に許されるために、何だってして欲しいの。たとえ、私は許すことができないと分かっていても、やっぱり、何だってして欲しいの』
 この子は、僕がこの子に許されたいと思うのと同じぐらい、僕に許されたがっている。
『あなたは、この時計を受け取ったら、私を許さなくちゃいけない、って思っているんでしょう。でも、そうじゃないわ。この時計を受け取ることは、始まりを意味するの』
『始まり?』
『そう。死ぬまで終わらない、断罪と贖罪、呪詛と救済、そして、悲しみと喜びの繰り返し。あなたがこれを受け取ってくれたなら、私たちは、それを始めることができる』
 その言葉は、シンシアだけが言っているのではありませんでした。
 私が、この戦争で出会った、全ての人々……落ちていった日本兵、不時着した中帝兵、台湾で出会った新国兵や娼婦、スコットランドのハーロック、フランスのジャン、特攻で散華した英国兵、そして、声を上げることもできずに死んでいった、名もなき無数の人々……彼らみんなが、シンシアを通じて、私に呼びかけていました。
 始めるか。それとも、始めないか。
 私はただ、彼女の手を、懐中時計ごと、ぎゅっと握りしめました。もう二度と離さないぐらい、強く。
『……一つ、聞いてもいいかい』
『何?』
『何でもするって、言ってくれたよね』
『ええ、言ったわ』
 その言葉は、私が思ったよりずっと、自然に出てきました。

『じゃあ、僕と結婚してください、シンシア』
『……はい、マコト』

 時計は寝台の下から出てきた、と報告すると、本宮大佐は観測史上最大の大噴火を起こし、たまたま隣の部屋にいた後藤が止めに入ってくれなかったら、私は無断欠勤の件と合わせて、中尉への降等を食らうところでした。
 私とシンシアは、詳しく書くのはただの恥なので省略しますが、その後も仲を深め、早い内にマリーばあさんに挨拶に行かねば、と話していました。
 そんな時、天皇誕生日がやってきました。高崎基地の司令部は、占領任務もいくらか軌道に乗って、ちょうどいい時期でもあるし、ここらで戦没者の慰霊式典を開こうと発案しました。
 私は式典の一環として、慰霊飛行のために吐炎を駆り、アーリントン男爵邸上空を飛行する任務を与えられました。
 その日、私が三機の部下を率いて、四機編隊の先頭を飛行していると、右手下方に、男爵邸が見えてきます。そこでは、本宮大佐とアーリントン男爵が、並んで慰霊飛行を見守っていることになっていました。スティーブや後藤も……そしてもちろん、愛するシンシアも見ているはずでした。
 私は、ちょうど機体が男爵邸の真上に差しかかったところで、操縦桿を強く引き、編隊を外れて急上昇しました。そうやって、私はその瞬間、天に昇っていく魂の役を演じるのです。それが慰霊飛行でした。
 私は急上昇を続けます。正面だけを見る私の目には、地上はもう映りません。視界一杯の空が、みるみる青くなっていきます。
 私は、顔のすぐ横を走る、遠い水平線の彼方へ向けて、心の底から叫びました。

 

 届け、届け
 天まで届け
 世界中の、みんなに届くように
 届け、高く