冬が終わり、春が来ました。以前なら頻繁にあったアーリントン男爵邸への訪問も、こと私のそれに限っては数は減ってきていて、月に二回あるかないか、といったところでした。
 この頃になると、一時期は目にも留めなかったアーリントン男爵の英国式庭園は、少しずつ息を吹き返してきていて、家の人は、花の咲き誇る季節が楽しみだろうな、と私は他人事のように思いました。
 実際、まるっきり他人事だったのです。私は、シンシアには意識して会わないようにしていました。会っても、決して目を合わせたりはしませんでした。シンシアの方でも、私に話かけるようなことは決してしませんでした。
 そのうち、自分は帰国して日本の女性と結婚し、シンシアはシンシアで、職業婦人として生きていくか、でなければ、英国の男性と結婚するのだろう……私はそんな未来を、受け入れかけていました。
 しかし、時々、こうも思いました。
 それが、長く苦しい戦いの果てに、選び取るべき未来なのか、と。

 

 事件は、そんな時に起こりました。
 その日、私は大事な会合のためにアーリントン男爵邸を訪れていました。会合というのは、基地飛行隊の飛行訓練を、騒音と事故の危険の問題から、人口密集地を避けて行って欲しいという住民の嘆願から端を発したものでした。飛行隊長の私自身は、住民の言い分はもっともだと思い、すぐに受け入れる方針だったのですが、いくら円滑な占領行政のためとはいえ英国民を甘やかしすぎるのはよくないという、意味不明な横やりが憲兵隊から入り、すんなりとは決まりませんでした。それでもどうにか、訓練経路の選定は、住民の要望に十分配慮しつつ、基地司令部の指導の下で飛行隊長が専権的に行うという、やや日本側に有利な条件だったものの、ともかくこの日の会合までにその方向で調整ができていたので、私は席を外して用を足しに行きました。
 会合に戻る途中、私は洗面所に懐中時計を忘れていたことに気づきました。この頃の私は、肌身離さずその時計を持ち歩いていたのです。その懐中時計だけが、英国に対する私の思い出を、苦いものにするのを防いでくれていましたから……ともかく、私がすぐに洗面所に戻ると、懐中時計は、置いたはずの場所から忽然と消えていました。
 最初は、おかしいな、と思っただけでした。私は確かに、用を足す前に懐中時計で時間を確かめたのを覚えていました。すぐにスティーブにこのことを話し、時計を探しておいてもらうよう頼むと、ひとまずその日は基地に戻りました。
 翌日、私が約束した時間に屋敷のスティーブを訪ねると、彼は、申し訳ありません、と平謝りで、懐中時計は見つけることができなかった、と言いました。
「待ってくれ、スティーブ」エントランスホールで深々と頭を下げる彼に、私は言います。「あの時計は大事なものなんだ。もう一度よく探してみて欲しい」
「重ね重ね、申し訳ありません、桐鞍大尉……しかし、一日中探しても見つからないところをみると、おそらく……盗まれたものと思われます」
……まさか、戦争が終わってからも、悪夢のような経験をするとは思ってもみませんでした。文字通り、頭を金槌で殴られたような衝撃、でした。
 あの大事な思い出の品がなくなったとすれば、私はどうやって今の自分を維持すればいいのか、分かりませんでした。
「そんなまさか……」そして、私はすぐにそのことに気づきました。「スティーブ。僕は君を信じているが、あの時、目を離したのはほんの一瞬だった。これが盗みだとしたら、犯人は使用人の誰かとしか考えられない」
「心苦しいことですが、おっしゃるとおりでございます。この上は、全身全霊を尽くして、犯人を見つけ出す所存です」
「警察には通報したのか」
「どうか、それはお待ちください、桐鞍大尉。警察を屋敷に入れては、アーリントン男爵の名に傷がつきます。まずは我々にお任せを。通報を考えるのは、それからでも遅くはないと存じます」
「事を荒立てたくない、ということか」
 スティーブは沈黙をもってそれに答えます。
 私は万が一のことを考えました。もし、あの時計が英国人の手によって盗まれ、返ってこなかったとしたら……私のこれまでの人生は、無に帰するでしょう。
 戦争によって、青春と、英国の思い出とを、赤い血の色に染め抜かれていたその時の私は、人生の明るい一面、美しい部分を、それだけあの懐中時計に依存していたのでした。自分でも、そうと気づかぬうちに。それを、英国人に盗まれたとあっては……。
「いいだろう。スティーブ。五日だけ待ってやる。だが……」私はスティーブの方に一歩歩み寄り、まるで三下がやるみたいに、この哀れな壮年の友人をにらみつけました。「もしそれでも見つからなかったら、僕はあの胸くそ悪い憲兵たちを連れて、ここに乗り込んできてやる。屋敷中ばらばらにしてでも、あの時計を探し出す!」
「……何を物騒なことを言っているのかね、桐鞍大尉」
 振り返ると、本宮大佐と後藤が、エントランスホールに入ってくるところでした。私は、一応、という感じで、敬礼をしてみせました。
「そんな風に声を張り上げるなど、貴様らしくもない」と、大佐は言います。「何があった。話を聞かせてもらおう」
 私は、事の次第を大佐にかいつまんで説明しました。
「なるほど。窃盗事件か。日本人が盗むこともあれば、日本人が盗まれることもある、か。ふん。まあ、それは道理というものだろうな」
 大佐はそう言って、難しげな顔で思案すると、私にこう言いました。
「桐鞍。この件はいったん、私の方で預かる。スティーブや、アーリントン男爵とも、私の方から話してみよう。後のことは夕方、基地に戻ってから伝える」
「はい」私は、強面の本宮大佐が直接乗り出してくれるなら心強いと、単純に考えていたのでした……この時ばかりは。「どうか、よろしくお願いします」

 

 大佐が約束した通り、私はその日の夕刻、大佐の執務室に呼び出されました。
 私が入室すると、大佐は執務机に座り、横には後藤が控えていました。大佐は上機嫌そうな顔です。
「喜んでいいぞ、桐鞍」
 私は、てっきり時計が見つかったものと思って、晴れやかに敬礼しました。
「このたびは、本当にありがとうございます、大佐」
「なあに。アーリントン男爵が気前が良かっただけだ」
「……は?」
 嫌な予感が頭をもたげた私に対し、大佐は笑顔のまま言います。
「アーリントン男爵は、再発防止を約束しつつ、補償金を支払ってくれるそうだ。あの時計の、時価の三倍。しかも、日本円で支払ってくれるという話だ。早速、明日から時計の型式を調べて査定を――」
「ちょ、ちょっと待ってください。その前にやることがあるでしょう。犯人捜しは?」
 発言を遮られた大佐は、不愉快そうな顔をします。
「桐鞍。お前が一番よく分かっているだろう。男爵との関係をこじらせては、円滑な占領任務の遂行は困難だ。盗みの噂は、すぐにでも広まるだろう。それだけでも、男爵には屈辱だというのに」
 あの人種差別主義者だった本宮大佐が、この短期間に、ここまで変貌を遂げるとは。
 しかし、私が目を見張ったのは、嬉しさのためではありませんでした。
「まさかあなたは……私に、泣き寝入りしろと言うのですか?」
「泣き寝入り? 何を言っている。さっきも言っただろう、十分な補償金が――」
「あのくそったれの老いぼれ貴族は、金で手打ちにしようって言ってきたのか!」
 大佐は目を見開いて、後藤は目つきを鋭くして、めいめいのやり方で驚いていました。そういえば、私は軍隊に入ってから、目上の相手に癇癪を起こしたことはありませんでした。
 しかも、私は一度怒鳴っただけでは止まりませんでした。
「冗談じゃないぞ! あれは、金では換えられない、大事なものなんだ! ……そうか。何か裏取引があったんだな? そうだろう、この糞野郎ども!」
「桐鞍、落ち着け」まず、後藤が言います。「男爵が言い出したわけじゃない……大佐の提案を、男爵が恐縮して受け入れたんだ。いずれにせよ、いいじゃないか。時計なんて、また新しいものを買えば」
 駄目なんだ、と私は声にならない声で叫びました。あの時計は、ずっと一緒だった。苦しみも悲しみも、一緒に受け止めてくれたのは、あの時計だけだった。あの時計の向こう、追憶の中にいて、今はもうどこにもいない、優しい人たちだけが、いつもそばにいてくれた。
「桐鞍」大佐が言います。「貴様は軍人だ。いや、一人の大人だ。たかが時計がどうした。何をそんなに動揺している」
 どうしてこいつらは、こうも他人に対して冷たくいられるんだろう。
 ああ、そうだ。
 こいつらも、そうなんだ。
 こいつらも、銃弾や爆弾で、たくさんの人を殺してきて、それで平気な顔をしている。
 そういうやつの仲間なんだ。
 何を言っても無駄だ。
「補償金など、自分は受け取りません」私は回れ右して、背を向けたまま言います。「犯人捜しも、もう結構……自分はもう、何も望みません……もう、高望みはやめます」