「プロでもないやつが前書きなんか書くんじゃない」と某創作サイトには書かれていますが、時として、前書きがどうしても必要な作品というものが、作者が意図せずに生まれてしまうことがあるように思います。
この長編小説「とある愛国者からの手紙」がそうです。
ここに掲載する文章は、某出版社の某新人賞に送り、編集者にボロカスに酷評されてしまった原稿が元になっています。
落選もあり得るということはもちろん分かっていたのですが、正直なところ、ああも酷評されるとは思いもよりませんでした。
この事態によって「落選したら電子出版して一攫千金を……」という私の密かな野望、プランBはもろくも打ち砕かれました。編集者に酷評された作品で読者からお金を取るのは、いくらなんでもまずいと思ったからです。
「じゃあ無料ならいいのか」という疑問が、当然浮かぶと思います。
まあ、その、お言葉を返すようで恐縮ですが「無料ならいいかどうか」は、読者の皆さん一人一人が判断していただければいいだけの話です。「いいから黙って読め」と言う気はもちろんありませんし「お願いだから読んでください」と哀願することもしません。
ただ、私の話をさせてもらうなら、「とある愛国者からの手紙」を書いている間、私の人生は、それまでのいかなる時よりも強く輝いていました。
割と長い年月、小説というものを書いてきました。いつからか「傑作が書きたい」と思うようになりました。傑作とは何か分かりませんでしたが、自分がまだ傑作が書けてないということははっきり分かっていました。
小説家の間では、こう言われているそうです。「頭の中で構想しているうちは、どんな小説も傑作に思える。しかし、実際に傑作を書くのはとても難しい」。真に金言だと思います。
この作品を書き上げた時、私は初めて「自分が傑作を書けたのではないか」という気持ちになりました。
数ヶ月経って読み返した時、もう私は自分の作品を評価することができませんでした。
それはなぜか。
書き上げたという熱狂や陶酔から目覚めて、本質的につまらない小説を、客観的に評価できるようになったためなのか。
それとも、あまりにも何度も読み返したせいで全てのシーンを覚えてしまい、どんな不朽の名作も短期間に何度も見れば色あせて見えるように、飽きてしまったからなのか。
私にはどちらなのか分かりません。
ただ、一つだけ、はっきりと覚えています。
ラストシーンを書いている間ずっと、涙をこらえることができなかった自分のことを。
そういうわけですから、編集者に酷評された作品を掲載することに対して、私にはほとんどためらいがありません。
長くなりすぎました。
最後に一つだけ。私は毎月書いている短編でも、感想がもらえると嬉しいなと思っていますが、前述した事情から、この長編小説については特に感想を熱望している次第です。
よろしければ、当サイトの問い合わせコーナーからでも、私のTwitterからでも、どういう形でもけっこうですから、感想を送って下さると嬉しく思います(ただ、全てに返事が書けるわけではないと思います。ご容赦を)。
では。